二週続けての日・月の連休。窮屈な発行スケジュールとならざるを得ない、輪転機を持たない零細新聞社としては、勝手に連休を増やしている国会議員、為政者、高級官僚ら、思いつく誰でも彼でも、呪いたくなる気分なのだ、正直な話。

 連休で思い出した。例えば、体育の日。若い人は知らないかも知れないが、十月十日、一九六四年(昭和三十九年)のこの日に、東京オリンピックの開会式があった。なぜ、十月などという、夏のオリンピックとしては遅い季節に開かれることになったか?  当時、大人でも子どもでも、多分、ほとんどの日本人は知っていた。この日は、東京地方では雨が降らない、晴れる確率が異常に高い、「特異日」だったから。そして、その予測は的中した。

 十月十日になると、思い出すのだ。買って間もないテレビの前で、ワクワクしながら入場行進を見つめていた、幼い日の自分を、三波春男の「こんにちは  こんにちは  世界の  国から」の歌声を、円谷幸吉の走る姿を、東洋の魔女たちを、ヘイズやアベベを、そして当時の身の回りの日本の風景を…。「ハッピーマンデー」などと、わけの分からない横文字の制度をでっち上げて、そのいわれある記念日を十月の第二月曜日にしたのは、誰だ。発想が、ご都合主義なのだ。動かして良いものと、いけないものがある。たかだか連休が増える、すると民草の購買意欲が増すだろう、という意地汚い思惑で、私たちの記憶や思い出の光景を抹殺しようとするのは、どこのどいつだ。

 同じくハッピーマンデー制度で、九月十五日に決まっていたものが、十六日になったり、ひどい年には二十一日になる「敬老の日」、今年は十七日だったのだが、タクシーに乗った。運転手さんが嘆く。「私らの商売、そうでなくても厳しいのに、この連休はそれに追い打ちですよ。一日勤務して、二千円、三千円なんてことも珍しくありませんから」と。そして「休みが増えて喜べるのは、お役人と大企業のサラリーマンくらいじゃないの?」とため息交じりに苦笑いした。私も一緒にため息――。八つ当たり的長い枕で申しわけない。

 新聞もテレビも、福田さんと麻生さんの追っ掛けのような様相だ。入院しているとされる現職の総理大臣の話題は、ほとんど報じられず、「麻生さん面白い」「福田さん安心感」みたいな報道が連日垂れ流される。直にお会いしたり、話を聞いたりしているわけではないから、福田VS麻生にとやかく言うつもりはないが、日本の政界の人材難、あるいはその資質、レベルを露呈していると感じ、シラケてしまった一つの光景――。

 十六日、東京・渋谷で行われた街頭演説の報道で、麻生さんが聴衆の笑いを誘ったという場面。「最近、キャラが立ち過ぎて、古い自民党の皆さんに評判の良くない麻生太郎です…」。意味不明。十誌以上の漫画週刊誌を定期愛読しているというお方だから、「キャラが立ち過ぎる」というのは、その漫画オタクの世界の共通語なのか、と想像するしかなかった。まともな日本語を話せない男の形容詞に「庶民感覚を持った」なんて使うな。英語ペラペラが自慢らしいが、英語を話せて偉いんなら、米国人や英国人の大半が偉い人になるぜ、まったく。

 この程度の方が恐れ多くも総理大臣の候補になれるんだからなぁ。政権を放り出した現総理も同じだが、結局は、ふるいに掛けられていないんだ。金も、票も、人脈も、みんなお父さんから譲り受け、苦労なく国会議員になって、口先三寸で実力以上の権力の座を手に入れた。あとは、図々しいか、執着するか、厚顔か、その次元の話。いわば、進行する格差社会の象徴が、自民党の総裁選びに露出している、ということだ。それにしても、福田さんが良いか、はたまた麻生さんかみたいな、アイドルの人気投票レベルの報道合戦には、あきれ果てちゃうぜ――。

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