海上自衛隊の最新鋭のイージス艦と漁船が衝突した事故について、読売新聞の二十日付一面コラム「編集手帳」は次のように書いた。

「イージス艦には高性能のレーダーがあり、見張りの隊員も複数いたはずなのに、漁船ひとつも避けられない。『万が一、自爆テロの船だったらどうするのだ』(渡辺喜美金融相)という不安の声が閣内から聞こえるのも道理である」

この大臣の言葉、その前か後ろに「たまたま今回は漁船で良かったけど」のフレーズが隠されている、あるいは省略されていると読み取ったのは私だけか。冷たい海で行方不明になっている漁師の父子に対する、なんという侮蔑の言葉だろう。国家とはそういうものだ、と改めて認識させてくれた一文だった。枕はここまで。

旭川市が現在進行中の「新旭川市史」の編纂(へんさん)作業を〇九年度から休止するという。その最大の理由は、財政難。休止の期間は未定。少なくても、三年後、五年後という短い「お休み」ではなさそうである。

新市史の編纂は、一八九〇年(明治二十三年)に神居・旭川・永山の三村が設置されてから百年を記念する事業の一つとして一九八八年(昭和六十三年)に作業がスタートした。計画では、通史・史料編を合わせて九巻、十冊を刊行することになっており、これまでに、先史時代から一九二二年(大正十一年)までの通史編三巻、史料編三巻を刊行。〇八年度中には、一九四五年(昭和二十年)の終戦までの通史第四巻の刊行が決まっている。休止によって、戦後史の上下二冊からなる第五巻と、索引や史料などの第九巻が未刊になる。

休止について旭川市史編集会議編集長の原田一典・旭川医大名誉教授は語る。

「財政的な理由から休止すると言われれば、私たちとしてはどうしようもない。ただ、『時間がかかり過ぎている』という批判は心外だ。私は、この仕事を引き受ける時に、『三年に一冊しか出せませんよ』と申し上げた」

「三村が設置されてから八十年を記念して刊行した前の市史(一九八一年刊)は、記述の出典が詳(つまび)らかではない面があった。新市史では、一つひとつの事実を資料や史料に溯って検証するという、歴史研究の手法を取り、出典も詳細に示すという形にしている。来年度、第四巻を出せば、二十年で七冊目。編集スタッフの陣容から言っても、決して作業が遅れているとは考えていません」

「このまま第四巻の通史で休止してしまえば、索引が載る第九巻がない状態になる。市史を使う人にとっては、全く利用しずらい。後世、私たち編集委員が途中で投げ出したと見られるのは困る。戦後の通史とする予定だった第五巻を、索引や史料編として刊行し、私たちは一巻から八巻の刊行で仕事を終える、そうなればいいなと考えている」

「私は七十九歳。今の状況から考えて、再び編纂に関わることができるとは思えない。十年後か、それ以上後になるのか、新しい編集委員の方たちに戦後史を作ってもらう。その時に、出来るだけ仕事がしやすいようにしておきたいという気持ちだ。それにしても残念だ。まちの歴史の編纂というのは、まちの文化を創り出していく事業だという認識が、低いのかも知れない」

二年前、中国から留学している二十代の大学生に「歴史」の話を聞く機会があった。強く印象に残っている彼の言葉。

「中国では『歴史を鏡にする』と言います。自分たちの国の歴史を知らないで生きて行くというのは、僕には想像がつきません」

「国」を「まち」に置き換えると、今回の市史編纂の休止が持つ意味が分かるだろう。たかだか、とは言わないが、年間二千五百万円から三千万円ほどの予算を削るために、まちの歴史を記録して後世に伝える事業を無期限の休止にする。ほかに、削るところは本当にないのか――。

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