函館に行ってきた。空路、片道たった五十分の旅。仕事のことで気持ちに余裕がなく、温泉にも浸からず、函館山にも登らなかった。と言いつつ、朝市で旬のヤリイカの刺身で軽く一杯はいただいたが…。よそ者の視点で函館の街を眺めた印象は、率直に言って「緑の少ない街だな」だった。ところが、なぜか、心が落ち着くような気分にさせられる。気ぜわしくない、なんとも不思議なのんびり感が漂っているのだ。

しばらくして気付いた。その理由は、路面電車だった。時代がかった、当今のオネエチャンたちの言葉を借りれば、“かーわいーい”体型の電車が、トコトコと走る姿と風景が、そこに居る者の気持ちを落ち着かせるのではないかと。

六十代、七十代の方から、旭川にも路面電車が走っていたという話を聞いたことがある。その痕跡が、道路工事の折などに、現在のアスファルト路面の下から顔を出すという話も。一九八一年(昭和五十六年)発行の旭川市史第三巻「交通と通信」の編にその記述があった。開通から、廃業・撤去までの経緯のあらましを整理すると――

一九一八年(大正七年)に最初の計画が持ち上がり、市営か民営か、運営会社の形態についての論争を経て、ようやく「昭和三年十二月二十九日寺田省帰を社長として三社合併、ここに旭川市街軌道株式会社を設立、登記完了、軌道敷設の特許を得て着工する。四年十一月三日市民永い間待望の一条及び四条線複線五・五〇五キロが開通、旭川交通史上画期的な電車開通式が行われる」。その後、四条十六丁目だった終点を八条十六丁目まで、さらに旭川駅から護国神社を経て自衛隊敷地の北側を迂回し一線六号に至る路線が営業を開始している。

そして開業から二十年後の一九四八年(昭和二十三年)、路面電車は廃止へと向かう。市史には「戦後二十三年四月七日、一条・四条線を撤去バスに切替え、二十五年七月五日神社前より市営球場前単線一・五五七キロ敷設開業、同日貯金局・競馬場間一・一一八キロを撤去、三十一年六月九日電車事業を廃業、道東北に唯一を誇った市内電車もここに姿を没する」とある。また、この間、電車を市営にして存続させるかどうかを巡り、当時の「市会」で展開された激しい議論の記録が六ページに渡って収録されている。運営会社が求めた市営・存続の願いは叶わず、「ついに三十一年六月八日十七万市民哀惜の中に、かつて市民自慢の交通機関である市内電車が姿を消すに至る」。

自動車の群れ掻き分けるようにゆっくりと走る函館の路面電車の風景を見ていて、ふと思った。「自動車は電車に気を遣っているのではないか」と。電車は、移動や運搬の手段としては自動車よりも歴史が古い。つまり、先輩に当たる。しかも、開業当時とほとんどスタイルを変えていない電車は、当然ハンドルを切って方向を変えることはできない。車を運転するドライバーの意識の下に、遥か年上の先輩を敬う気持ちがあるのではないか、気遣う思いやりがあるのではないか。その目に見えない、このまちに暮らす人たちの無意識の心配りが、風景を温かに見せる大きな理由なのではないか、と。

私たちの街は、半世紀以上前に、路面電車を捨てて、新しい手段のバスに乗り換えた。その一番の理由は、簡単に言えば、市の厳しい財政事情だった。当時、市営だった札幌や函館の路面電車は残り、旭川の電車は消えたのだ。

この稿もそうだが、商売柄、市史のページをめくる機会が少なくない。お気づきの読者もいるだろうが、今回引用した市史の記述に矛盾がある。「廃業」の日付が、昭和三十一年「六月九日」と「六月八日」の二通りの記述があるのだ。他にも、この電車の項に「同年」とあるのが、前後の脈絡からも理解できないという例もある。先代の市史の編集者にケチをつけるつもりは毛頭ない。ただ、まちの歴史を後世に残すという事業は、事ほど左様に、面倒な仕事なのだ。時間も、労力も、人知も、つまりある程度のお金をかけなければならない、ということだ。

この欄でも取り上げたが、新・旭川市史の編纂が、市の財政難から無期中断に追い込まれる。どんな事業を捨てて、どんな施策を選ぶのか、そのまち全体が、その時点で持ち得る価値観が、五十年後、百年後のまちを作るんだ――。

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