積丹まで釣りの取材に出かけたのだが、途中、あっちでもこっちでも、道路工事が行われているのに驚いた。我がまちでも、大手建設会社の倒産による影響を食い止めようと緊急経済対策と称して道路工事を発注するようだが、推測するに、道内の多くの地方自治体がそうした経済対策を実施しているのだろう。受注を受けた会社は、取り合えずひと息つける。回り回って、不景気風が吹き荒れる地域の経済を潤すことになる…。

昭和三十年代後半に始まる高度成長時代から続けられて来た伝統的な、公共工事依存型の経済対策が、その検証も十分にされず今も延々と続けられている。国も地方自治体も、真っ赤っかの赤字財政に喘いでいるという理由で、健康保険や年金の掛け金、住民税は次々に上がり、病者や弱者に対する支援・サービスは軒並み切り捨てられ続けているにもかかわらず、である。

小泉政権から安倍・福田の短期投げ出し政権まで続いた、国の財政健全化の流れは、どうやら麻生新総理の元で反故にされそうな気配だ。宗教団体を支持母体とする与党の一角も、かつてバブル経済崩壊後の景気浮揚策として実施した地域振興券(一九九九年)と同様の“現世利益”を顕現するかのごとく、大がかりな定額減税を求めて、財源も明らかにされないままに実施されそうな雲行き。減税されたお金は、先行き不安な賢き国民は買い物などには回さず、またぞろ、貯金して終わり、ということになりはしないか?

密かに「極北のダ・ヴィンチ」と呼ばせていただいている、友人のアーティストと話していて、このところ繰り返し話題に上るのは「日本の社会、なんだか、とっても忙し過ぎじゃないかな」ということ。海外に出る機会がある彼いわく、「特にヨーロッパの国々に行くと感じるんだけど、中年の、オレたちぐらいから上の世代のオジサン、オバサンが、しゃべっているんだ。お茶を飲む店とか、街角とか、別にお酒を飲んで騒いでいるわけじゃなく、とにかく何人か集まって大いにしゃべっている。日本には見られない光景だよね」と。「ある時、イタリアでバスに乗ったんだ。途中から運転手と知り合いのオジサンが乗ってきた。そうすると、運転手はそのオジサンと楽しげにペチャクチャしゃべりながら運転してるんだよね。文化や習慣の違いと言ってしまえばそれまでだけど、人と人のコミュニケーションの濃さと言うのかな、その社会が共有している心の余裕のようなものを強烈に感じたよ」。

我が身を振り返れば、確かに、気忙しくなった。その一つの理由は、間違いなく携帯電話だ。いつでも、どこにいても、連絡を取られる。こちらが望むと望まないにかかわらず、捕まってしまう。しらばくれても、「着信履歴があるだろうに。どうして電話かけて来ないんだ」と逆に脅迫されたりして、さ。いや、そりゃあ便利ですよ。怠け者の身には、仕事上、めちゃくちゃお世話になっていることは否定などしませんよ。ただ、この便利さにかまけて、どれほど横着になってしまったことか、もちろん生来の資質もあるけれど。

まず、段取り、つまり下準備のような作業を、精神面も含めてしなくなった。電話番号さえ入力してあれば、相手が会社にいようが、表に出ていようが、連絡はつくはず、という安易な思いが頭の片隅にある。だから、相手の都合をおもんばかることも、想像力を駆使することもない。携帯が普及する以前の日本の社会、たかだか十年ほど前の一般的なマナーを振り返れば、全く礼儀を欠いた、とんでもない振る舞いだろう。それが、今や、慣れとは恐ろしいもので、ほとんど躊躇なく、直接携帯に電話するのが日常になっている。かつては、アドレス帳に頼ることなくダイヤルしていた幾十人かの電話番号も、記憶のかなた。テメエの家の電話番号さえ…、ほとんど記憶喪失状態。生き物としての能力喪失に加え、礼儀やマナーや思いやる想像力まで捨てつつあるのではないか、自らを恥じて振り返りつつ、そう感じる。

現在、世界を席捲している同時不況、恐慌の一歩手前の現象も、いわば米国流の行き過ぎた自由経済、市場至上主義、過度の規制緩和、グローバル化がその一因ではなかったか。利益追求にしても、便利な道具への安易で極度な依存にしても、古人の「過ぎたるは及ばざるがごとし」の諺が当てはまる面があるのではないか、と思う。十六、七世紀の暮らしを守り続けるアーミッシュの人たちに倣えとまでは言えないが、温暖化現象に照らしてもどこかでブレーキをかけなければならない時代を迎えている気がしてならない。いつにも増して観念的な原稿になってしまった。ごめんなさい。

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