読者からファクスをいただいた。二月三日付の本欄「モンゴルの旗についての朝の電話と、お坊さんよ、お寺よ、もっと動け――」の、後半部分、「お坊さんよ、お寺よ」についてのご意見である。紹介する。

――通夜での僧侶の説教がよく分からないという話から、仏教者はもっと社会に貢献していただきたい趣旨。通夜でのお話が分かりにくいのは個人的な資質によるものでしょうから、そのことから一概に仏教者への批判までは少々短絡的な気がしますが、いかがなものでしょうか。

みなさんには余り知られていないと思いますが、阪神大震災の時、あのボランティアの中に全国各地からやって来た大勢の仏教者がいました。北海道からも、各地・各寺から忙しい行事をぬって、代わる代わる住職、坊守(ぼうもり)、檀家さん達がお手伝いに行っていたのです。

そして、今は、札幌別院の駆け込み寺。様々な状況の中で、社会について、いのちについて、仏教者は考え、実践していることも、ぜひお分かりいただきたくて…。直言に曲言!?…でした――

多分、いかがわしい新興宗教と違って、正統、真っ当な宗教者は自己アピールなどせずに、控え目に、奥ゆかしく、衆生のために陰で社会貢献をなされている、だから目立たないのだ、身近に立派なお坊さんも数多いらっしゃるのだ、という趣旨のご指摘。なるほど、その通りなのだろう。ただ、やっぱり、通夜の席でのお説教、プロなのだから、幾ばくかのギャラ、いや、お布施を頂戴して語るのだから、もう少し語りの専門家としての修行をしていただくことは出来ないか、そう思うのであります。

「あのお通夜の席の説教は、本来、浄土真宗のお坊さんだけがやるもので、真言宗や曹洞宗など他の宗派はしないものなのよ。焼香と読経が終わって、ハイ、さようならとお坊さんが帰ってしまうのでは、何だか間が持たないということで、近頃は真宗以外のお坊さんも説教をするみたいだけどね」とのご助言もいただいた。フムフム、そうか、浄土真宗以外の坊さんのお説教は、オマケだったのか。世の中には、うれしくないオマケというものもある、そう理解しよう…。

お坊さんやお寺に毒づきたくなったのには、理由がある。いろいろな人から、「日本は、私達の社会は、どうなってしまうのでしょう」という声を聞く。教育だ、モラルだ、家庭崩壊だ、親が子どもを、子どもが親をあやめる世の中になっちゃった、雇用、生きる喜び、環境破壊、地球滅亡、そして幸せって何だ…、ため息をつくしかないレベルの様々な社会問題の根底には、「哲学の喪失」があるのだと思う。

国連の食糧支援計画(WFP)のデータによれば、世界の死亡原因の第一位は、飢え、飢餓だという。飢餓人口は十億人。世界の全人口の七人に一人が飢えている計算だ。地球全体では、全ての人が食べられるだけの食糧が生産されているのにもかかわらず、である。仏教や宗教については全くの素人だが、こうした二十一世紀の悲惨な状況の中で、仏教は新たな「哲学」を提示できる力があるような気がするのだ。それも、平和憲法を有する日本の仏教こそが。

「善人なおもと往生をとぐ、いわんや悪人をや…」――はるか昔、高校で習った歎異抄の一説を思い出す。これほどの逆説を衆生に説くことが出来る宗教。いま、生きる方向を見失っている社会に向けて、新たな哲学を提示できるのは日本の仏教界じゃないか。決して政治的じゃない、全く性的な私の動物的勘が、そう直感させる。だから、通夜の場で意味不明の説教をモゴモゴやってる葬式坊主に腹が立つ、というわけだ。

枕のつもりで書き始めたのだが、ついつい神や仏の話に進んでしまった。ご容赦を。

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