二十年来の友人であるラーメン屋のオヤジが、酒の席で、「あっ、思い出した。盲導犬の寄付、ちょっと貯まってるんだ。ついでの時に、取りに来てよ」と言う。本紙が毎年企画している「盲導犬育成応援キャンペーン」にも賛同してくれている彼は、自分だけのチャリティー募金を続けているとのこと。

そのアイデアに思わず笑いを誘われながら、なにやら目がウルウルしてしまった。「こんな男が、この世知辛い世の中に、まだ生き残っているんだなぁ」って。彼の話――。

店を始めた二十年前は、食べ終わったラーメンの丼(どんぶり)をカウンターの上の台に上げてくれて「ごちそうさま」と言ってくれるお客が結構いたのよ。髪を赤く染めたり、やんちゃな風情のお客の中にも、そういう、こちらが「どういたしまして」って応えたくなる客が少なからずいた。でも、ここ最近は、めっきり減ったね。珍しくなっちゃった。そういう、なんて言うかな、礼儀と言うか、互いの立場を思いやる気持ちって、こちらから要求できる類のものではないじゃない。だから、オレ、食べ終わった丼をカウンターの上の台の上に上げてくれるお客がいたら、自分で五十円を盲導犬の寄付の箱に入れることにしてるんだ。それがちょっと貯まってるからさぁ――。

過日、畏敬する先輩経営者が会社に顔を見せてくれて、やおら財布から一万二千円を取り出し、私に差し出す。「あんたがいいと思う所に使ってくれ」と。一万二千円…、あれぇ、何のことでしたっけ…。怪訝な顔をする私に「オレ、金はないけど、国からこんな金をもらうほど貧乏してないから。あんた、前に書いていただろう。オレ、賛同したから」と彼。あらら、思い出した。定額給付金…。昨年十一月十八日号の本欄――

さて、国語は苦手だが、英語は得意と自認しているらしき、その麻生首相が打ち出した「定額給付金」の話。私は五十七歳だから、国からお恵みいただけるのは一万二千円らしい。夜のカウンターでご一緒することが多い先輩は昭和十五年生まれの六十八歳だから、八千円上乗せされて、二万円也。

過日、「何もしないのに、金をもらうなんて、どうも気色悪いというか、納得できないというか…」という話になった。「民を愚弄しているよ」「自尊心をずたずたにされるんだ」「テメエの卑しさをむき出しにされるみたいで」「どんな発想から、こんな愚策を思い付くものなのかね」などと言葉を交わしつつ、「だけど、周りがみんなもらってさ、自分だけ辞退するというのも、なんだか寂しいというか、仲間外れみたいな…」。

アルコールが程よく回った頃、結論が出た。もし、給付金をいただける局面になった場合、同じ気分でありそうな周りの友人・知人にも声をかけて、その一万二千円なり、二万円なりを寄せ集め、地域や社会に役立つような、何か、どこか、そういう所に「寄付しちゃうべ」と――。

書いた本人が、すっかりではないけれど、どちらかと言えば忘れちゃいたいと思ってる(ハハハ)半年も前の拙文を、ちゃんと心に留めていてくれた。そう言えば、三月に七十一歳で亡くなった、敬慕してやまない女性も病床で「直言の趣旨に賛同するからね。もし、二万円いただいたら、小熊に寄付するから。あれって、私が死んでももらえるのよね」と申し出てくれていた。「小熊」とは、小熊秀雄賞市民実行委員会のこと。彼女は、廃止の瀬戸際にあった小熊賞が有志の力で継続できたことを、ことのほか喜んでいたのだった。

歳のせいだろう、こうして呻吟しつつ原稿を書きながら、いい人たちのことを思い浮かべると、なにやら目がウルウル…。世の中、捨てたものじゃない、そう感じる今日この頃でありまする。

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