道路工事の現場を通りかかると、工事名やら、発注者やら、受注業者やらが書かれている看板の下部に、模擬花壇があるのを見つけた。チューリップやバラや名前不詳の、見るからに偽物の花が咲いている。以前、この欄で毒づいたことがある、堤防上の工事現場に設置された木製のゴミ箱のことを思い出した。こうした光景に接した時に感じる、ガラス板を釘の先でひっかくと発する、いやな音を耳にしたような、ザラッっとした感覚。乱暴に言ってしまえば、「どうでもいいけど、できれば見たくないから、やめてほしいのよ」。

堤防上のゴミ箱も、模造花壇も、発注者側が受注業者に強要する「環境に配慮する取り組み」の一環なのだろうと想像がつく。そして連想する。多分、そうした取り組み的発想の延長線上に、おサルやカエルの頭に鉄パイプを乗っける「柵」があるのだろうと。

道を行く歩行者も車のドライバーも、工事用の柵に「あら、かわゆい」と楽しませてもらいたいと思ってもいない。工事をしている側の人たちには申し訳ないが、私たちは工事が安全に早く終わってくれれば、それで十分。デザイン性とは似て非なる看板や構造物を使って、私たちの気持ちや感覚に余計なちょっかいを出さないでほしいのだ。技術者の仕事場らしく、無骨・無愛想でいい。シンプルに、やわでない、緊張感を感じさせる現場で何が悪い。こんなくだらないところにお金や智恵を絞る、いや、絞らせるのは、やめてください。枕は、ここまで。

あと二年で還暦を迎える。夏、テレビや新聞が競って原爆投下や終戦の日特集を組む季節になると、決まり事のごとく、亡き父のことを思うようになったのは、いつからだろう。旧満州で捕虜となり、旧ソ連・ウズベキスタンのタシケントに抑留された亡父が、「シベリアエレジー」と自ら名付けて、その体験を語ってくれたのは、私が小学生のころ。今から半世紀も前のことだ。中国共産党軍との戦い、武装解除、貨物車に詰め込まれてシベリアに向かう途中、バイカル湖を見て「日本海だ。日本に帰れるぞ」とぬか喜びした哀しいエピソード、そして抑留地での労働など。

私は、父親から直接戦争の話を聞かされた最後の世代の一人だろう。憲法改正を党是に掲げる自民党にあって、平和憲法を守れと広言してはばからなかった河野洋平元衆院議長に代表されるハト派議員が次々に政治の場から身を引き、戦争を身をもって体験した議員がいなくなりつつある。

三十日に投開票される総選挙で、政権を争う自民党と民主党のマニフェストには、ともに憲法九条についての明確な言及はない。「あれもしてやる」「これの面倒もみてやる」と鼻の先に虹色のニンジンをやたらぶら下げられて、気が付けば正規軍を有する「普通の国」に成り下がっていた、そんな近未来がもたらされないよう、二大政党制が本当に私たち庶民に幸を与えてくれる選挙制度なのかどうか、浮かれず、抱き込まれず、流されず、それこそ先人が踏まされた轍をもう一度検証しつつ、一票を投じたいと思う今日この頃であります――。

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