信号も、もちろん横断歩道もない、住宅街から公園に向かう小さな交差点で、社会見学の途中なのか、野外学習に向かうのか、小学生の行列に出くわした。その行列が横切っている道路には一時停止の標識がある。私の車の側には、ない。一クラスらしき三十人ほどの子どもが、停止した私の車の前を横切る。子どものいる風景は好きだ。つい、半世紀も前の、自らの子ども時代の遠足や写生遠足のことを思い出しながら、列が通り過ぎるのを待った。

 先頭と最後尾に、教師らしき大人。行列が道路を渡り終えるとき、私は、なんとなく最後尾で引率している大人の顔を見ていた。軽く頭を下げるか、手を挙げて「どうも」の合図をするか、そんな光景をイメージしながら。だが、彼は、そんな素振りは露ほども見せず、私の方に目を向けることさえなく、悠然と道路を渡って行ってしまった。

あぁ、こうした教師の下で学んでいる子どもたちは、不幸だなぁ、運が良くないなぁ、と思った。社会に出る前か、その後か、きっとどこかの場面で、挨拶とか、思いやりとか、人間付き合いとか、その分野のコミュニケーションで苦労することになるだろう。ちゃんとした人に出会い、いい形で学べる機会があればいいけれど。

 私の年代であれば、若い者が失敗しても、許してくれたり、待ってくれたり、逃げ場を用意して叱ってくれたり、あるいは二度三度とチャンスをくれる余裕が社会全体にあったけれど、いつしか、中学校を卒業する時点で勝ち組・負け組に選別されるようになった。負け組に仕分けされた子どもは、回復不能なほどの深い傷を負わされて、自覚もできない劣等感を抱きつつ、残りの、五十年も、六十年もの“余生”を送るはめになる。

 少し前に一世を風靡したワンフレーズ総理大臣は、格差社会を目指す標語として「努力した者が、報われる社会」を叫んだ。すべては「自己責任」だと。お聞きしますが、じゃあ、報われない者は、努力が足りなかった、すべては自分の責任だから我慢せよ、とおっしゃるのかい? そんなことあるものか。努力したって報われない者は山ほどいる。多分、いつの時代もそうだったし、これからも変わるまい。報われる、報われない、何をモノサシに計るというのだ。「報われた」「幸せになった」「成功した」、そんな全く主観的な、華やかな価値判断を、例えば、亡くなった友人の命日に、人知れず彼が好きだった日本酒で乾杯して、その思い出にふけるような、そんなみみっちい性根の我ら民草に押し付けるな。

 全く脈絡がありませんが、国際染織美術館(優佳良織工芸館の隣)で開かれている「アーミッシュの生きかた」展、とてもいいです。私のような、普段、飲む、打つ、買う…、いや、買う方はナンですが、そんな自堕落な生活を送っている者でさえ、心が洗われるような気がします。便利で、忙しくて、過度に満ち足りて、そのくせ欲求不満の私たち日本人、つまり自分自身の暮らしを振り返り、ちょっと立ち止まって考えられる、そんな展覧会です。入館料の五百五十円、安いです。十八日までです。ぜひ、どうぞ。枕は、ここまで。

 民主党が政権を獲った選挙が行われたのは八月三十日。四百八十人の代議士が誕生した。さて、その方たちには、八月分の歳費が、全額支払われている。三十日は、投開票日で、当選した先生方の大半は、選挙事務所で「バンザーイ」をしたであろう。三十一日は、あいさつ回りか。国会議員としての仕事は、おそらく一切していない。それでも、一カ月分の歳費、百三十万一千円と、文書通信交通滞在費百万円の支給を受けている。

 二百三十万一千円×四百八十人。その総額は十一億四百四十八万円になる。働かざるもの食うべからず、の格言にのっとれば、まして国の巨大な赤字を考えれば、ここは日割りで支給を受けるのが、国益と国民の幸せのために身命を賭している先生方としては、正当な振る舞いでありましょう。仮に、日割りで計算すれば、一日当り七万五千円ほど。四百八十人の総計は三千六百万円。その差額は約十億六千八百万円にもなる。

 国会議員には、新幹線を含むJR全線のグリーン車が無料、航空券は一カ月四往復分無料、世間の相場からすれば著しく安価な議員宿舎などの特権が付与されている。政権交代で、「脱官僚」が華々しく喧伝されているが、政権党・民主党の議員の方たち、長く続いた自民党政権の下で強固に守られてきた自らの「既得権」について、今一度見直されてはいかがか。

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