友人が、カンボジアに小学校を建てるために寄付をすると言う。その額、およそ五百五十万円。校舎一棟四教室の建築費と、黒板や机、イスなどの備品の購入費にあてられる。亡くなった両親が住んでいた旭川市内の住宅を整理したお金だそうだ。〇四年七月に母親を、〇七年十月に父親を亡くした。彼女は一人娘。両親の名を何らかの形で残してやりたい、それがきっかけだった。なぜ、カンボジアの小学校なのか、絶対に匿名で、という約束で話を聞いた。

 ――それほどのことはないの。もうかなり前のことなんだけど、関わっている団体がカンボジアの子どもたちの里親になっていたのね。年に数千円なんだけど。クリスマスの時期になると、現地の子どもから「ありがとう」みたいな手紙が届くの。まぁ、そんなことが伏線かな…。

 それと、四、五年前に、北海道新聞に、ニセコの方の人だったと思うんだけど、七十歳くらいの人だったかな…、それがカンボジアだったかどうかの記憶も曖昧なんだけど、自分たちの少しの余裕のあるお金を送って、学校を建ててね、そこを訪ねて子どもたちが元気に学校に通っている姿を見て、すごくうれしいって、そんな記事を読んだの。とても、なにかほのぼのとしたのね。「あぁ、こういうことって、いいなぁ」って。それも潜在的にあった。どうしてカンボジアかって言われても、その程度なのよ。

 ――インターネットで調べると、小学校を建てるという活動をしているところが、二つあったの。ネパールとカンボジア。両方とも東京に事務所があって、都内の友人に頼んで、そこに行ってもらったのね。その一つが、小山内美江子さんという脚本家が中心になっている「JHP」というNPOで、旭川の教育大の学生ボランティアも関わっているの。そこに託そうと決めた一番の理由は、テレビ局が番組を通じて集めた一億円以上のお金を、「首都のプノンペンに近い場所に小学校を」などの条件を付けて寄付しようとしたときに「本当に現地の人たちが必要としている地域に建てたいから」という理由で断っているのよ。あっ、ここならば信用できるなって思ったの。

 ――私自身は公務員の家庭で育ったんだけど、樺太からの引揚者の寮の近くで、向こう三軒両隣、みんな貧乏だったのね。本当に貧乏だった。こんなこと、今まで誰にも言ったことはないんだけど、小学校のときにね、Oさんっていう、子どもが五、六人いる家で、その中の一人がすごく気が強い子でね。おばさんがブタの餌を集める仕事をしていたの。うちがPТAの役員か何かしていて、給食費って昔はPТAが集めていたよね、母がまたOさんから給食費もらえなかったって口にしたのを聞いたのかなぁ…。あるとき、Oさんにすごく意地悪なことを言われたか、されたかして、私、なにさ、あんたなんか給食費も払えないくせに、って言っちゃったんだよね。言っちゃったときに、あっ、って思ったんだけど、言っちゃったものはしようがない、とにかく、ものすごくにくたらしくて、きかない子だったのよ。そしたら、その晩、おばさんがえらい剣幕で怒鳴り込んで来てね。私、今でも、そのことは…。きっと私の中に、私だけちょっぴり裕福でごめんなさい、という気持ちが五十年間、ずーっとあったんだと思う。だから、ちょっとロマンチックな表現をすれば、そんな気持ちが、アジアの、まだ貧しい人たちのために、何かできればいいなって思ったのかな…。

 ――学校は、プノンペンから北へ二百七十一キロ、クラチェ県のタングーンという地域にある小学校。三つの村の子どもたちが通学しているんだけど、いままでの校舎は老朽化している上に、毎年冠水しちゃうんだって。新しい校舎は、三つの村の中心に建てるから、通学できる子どもが増えるし、これまでは午前中だけだった授業も午前・午後の二部制にできるみたい。トイレと井戸は、別のグループのお金で新たにつくるんだけど、その井戸とトイレは村の人たちも使うんだって。

 ――父母の名前を冠して、タングーン小学校○○記念学校という名前になるらしいのね。ときどき工事の経過が写真付で送られてくるの。多分、一月に完成して、すぐに子どもたちは新しい校舎を使うんだけど、こちらの都合に合わせて贈呈式をやってくれるんだって。ごく親しい友人たちに、私こんなことを考えてるのって話したら、十五人と一団体が賛同してくれて寄付が集まったのね。校舎に付けられるプレートには、その人たちの名前も刻まれるらしいから、贈呈式には修学旅行を企画して、みんなで出かけようと思ってる。父や母が生きていれば、あんたのために遺したお金をどうしてそんなことに使うの、って怒ったに違いないだろうけど、ハハハハ…。

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