いわゆる「還暦」まで、あと一年と数カ月という年齢になったせいか、近ごろ、寝付きの悪い夜などに、五十五歳で逝った父を思うことが時折ある。例えば、僕が大学を途中でやめる、と宣言した時、「オレも鉄道やめようかな」と呟いたのだと母を通じて、その事があって何年も経ってから、父の死後に聞かされた場面を、である。

 一九二三年(大正十二年)生まれの父は、戦争に駆り出され、満州でソ連軍の捕虜となり、現在のウズベキスタン共和国の首都・タシケントに抑留された。二年余り、強制労働に従事した後に帰国。出征前に就職していた国鉄に復職し、以後は鉄道一筋の人だった。オートバイやカメラ、釣りなど、本来は趣味人の面もあったのだろうが、とにかく仕事が一番という、あの世代の男の一つの典型とも言える人生だったろう。

 生意気盛りの中学生、高校生のころ、父親に「戦争に反対する声もあげなかった、あなたにだって戦争の責任があるではないか」などと、べらぼうな議論を吹きかけたことが何度かある。父は、困ったような、情けないような、半ば諦めたような、不思議な表情で、その都度、私にまじめに答える。「今にして思えば、そうだ。だけど、その時、その場に生きていれば、そうじゃないんだ。父さんが、もう一度、あの時代に戻ったとしても、また、同じように戦争に行くだろうな。お前は違うかもしれんけど…」。

 還暦を目前にした私が、三十代、四十代の男と話をしていて、ふと「話が通じねえな」と感じるのは、多分、亡父のように、自らの人生のある時期に、それまで信じていた絶対的なモノが全否定された経験がない世代、あるいは、そうした人間と直に接した経験と言ってもいいかもしれないが、その欠如によるのではないか、そう考えるようになった。

 決して、いい加減とか、ご都合主義とか、風見鶏的とかじゃなく、「長い人生、いろいろあったし、これからもあるんじゃないか」と、自己を抑制して振り返る、節度をもって省みる、うまい言い方が見つからないなぁ…、要するに、言い訳はしない、自分が肯定して従った世の中や時代の流れの全ては否定しない、他人のせいにしない、だが、忸怩(じくじ)たる思いを抱えつつ、一生懸命に生きなければならないのだよ、そんな心持ち。

 なにやら、柄になく小難しい話になった。最近の、旧政権党と新政権党の「政治とカネ」にかかわる泥仕合を眺めつつ、「無血革命」と言いながら、「革命」にはやはり「血」が必要だったのだなと、いささか物騒なことを考えている今日この頃であります。枕は、ここまで。

 民主党政権の誕生で、建設工事が「凍結」されているサンルダムの地元・下川町で、凍結解除を求めて、町と商工会などでつくる「サンルダムと町の活性化を図る会」が昨年末から行っていた署名活動で、千八百七人の署名が集まったという。同町地域振興課によると、二十歳以上の有権者は三千二百五十人。選挙権を持つ町民の五五%がダム工事の再開を求めていることになる。

 天塩川の支流・名寄川に注ぐサンル川は、サクラマスの幼魚、ヤマベの宝庫として知られる。私も友人と誘い合わせてシーズン中に一度か二度、川に入る。そんな折、友人でも知り合いでもない、赤の他人の町民に、「ダムを造ることについて、どう思っているの」と幾度か尋ねた。ほとんどの反応は、「…」。首を振ったり、頭をかいたりしつつ、「聞かないでくださいよ…」「狭い町だから…」である。「賛成」「反対」の意思表示をすることで、日常の付き合いや商売に差し障りが出るのは困る、という意味だと理解した。下川町の住民にとって、ダムの建設とは、そういう存在なのだ。

 さて、そうした複雑な気持ちを抱えながら暮らしている町民に対して、行政が主体となって、見方によっては人権侵害とも言える「踏み絵」を迫った今回の署名活動が集めた千八百七筆の署名簿を「えぇ? そんなに?」と読むか、それとも「町民にプレッシャーをかけたのに、たったそれだけなの?」と解するか。

 いずれにしろ、元町職員からも、コンクリート製のダム建設計画を転換し、「植林」と「森林整備」による「炭素ダム」にすべきとの提案も出されていると聞く。森の恵みによる町づくりを掲げる下川町が、環境に計り知れない悪影響をもたらすことが明白な従来型のダム建設を推し進めるのは、自己矛盾のそしりを免れないだろう。「凍結」や「踏み絵」が、下川町に暮らす人たちにとって、一度立ち止まり、じっくり考える契機になればと、サンル川の清流を愛する一人として強く思う。

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