ある日本の週刊誌が、訪米した鳩山由紀夫首相に対する米国側の雰囲気を伝える記事に「バカが専用機でやって来た」という見出しを付けた。ネタ元は、ワシントンポスト紙が鳩山首相を指して使った「hapless」という言葉。日本では「不運な」と訳して報道され、私などは「不運って、誰が?」と首をかしげたのだが、その単語は「哀れな」とか「情けない」とか「かわいそう」とか、そんな意味に受け取るのが正解らしい。

 私たちの国の総理大臣を指して「哀れで、愚かな」と表現したポスト紙は「鳩山さん、あなたは同盟国の首相ではなかったか。核の傘をお忘れか。その上で、まだトヨタを買えというのか」とも書いたという。米軍基地の「あり様」とトヨタに象徴される「商売」を同次元の問題として押し付けるアメリカ人。日本人の普通の感覚に照らせば、こんなヤツらとは、付き合いたくない、お友達になりたくない、出来れば絶交したい、ですな。有事の際は米国が守ってくれる、幻想でしょう。普天間の議論を聞いていて、「同盟国」という言葉の意味を、日米双方の国民が、互いに思い違いをしているのではないか、英和・和英の訳が根っこのところで間違っているのではないか、そんな気がする今日この頃。枕は、ここまで。

 旭川市が、東京都世田谷区の井上靖邸を井上靖記念館に移築するという。井上氏の遺族の意向に旭川市が応える形で話が進んだようだ。建物そのものを移築するのではなく、氏が生前使っていた書斎の座卓や書棚、応接間のテーブル、椅子などの調度、数千冊の蔵書を、記念館の敷地内に新築する建物に移設し、文豪・井上靖の執筆環境を再現するという。

 その費用、約八千万円は、市の厳しい台所事情から、一般会計から支出するのは難しく、国の補助金や基金の取り崩し、募金で賄う予定とのこと。氏の記念館などは全国に五カ所あるが、公立の施設は旭川だけ。遺族にとって、民間ではなく公立の記念館だというのが「旭川へ」の決め手になったようだ。

 北海道新聞が一面で「井上靖の書斎 旭川へ」の大見出しで移築を報道した翌日、旭川で文学に関わる活動を続けている方、お二人から電話をいただいた。いずれも「あなたは、この井上氏の書斎移設について、どうお思いか」というお話だった。お二人の話の主旨をまとめると――

 井上靖は、確かに旭川で生まれたが、一歳になる前に、軍医だった父親の勤務地が変わったことで旭川を去っている。「生誕の地」というだけのことで、「ゆかりの地」ほどの意味もないのではないか。記念館は一九九三年(平成五年)にオープンした。当時の市長は坂東徹。仇敵の五十嵐広三元市長に近かった「三浦綾子の文学館を」の声を無視する形で、突如、浮上して、瞬く間に完成した。旭川の文学同好者にとっては、政治的な背景によって建てられた記念館だという認識だった。

 旭川には、本来の意味で語り継がなければならない「ゆかりの作家」が、三浦綾子をはじめ、数多いる。安部公房、小熊秀雄、今野大力、佐藤喜一…、なぜ、井上靖だけが特別扱いされ、市が記念館まで建てて運営しなければならないのか。生涯を旭川で過ごし、多くの市民と“普通の、人の良いおばさん”のように付き合った三浦綾子の文学館は、有志による市民運動でようやく実現し、財団法人によって運営されている。

 小熊や安部や今野をはじめとする地元ゆかりの作家たちについての資料を収集保存し、研究するための「郷土文学館を」という要望は受け入れられないまま、また八千万円もの巨費を使って、井上の書斎を移築するという理由が分からない――

 井上靖記念館には、学芸員が不在だ。館長は、彫刻美術館の館長を兼務し、驚くべきことに、これまで文学や美術に関わる部署に在籍したことは皆無だという。館は、二人の嘱託職員と受付の臨時職員一人で運営している。開館時から、市民サークルが井上作品の読書会を毎週一回開いているが、その人数は十人足らず。今回の書斎移設で旭川にやって来る、「研究者にとっては垂涎もの」と言われるという数千冊の蔵書が、宝の持ち腐れにならないか、と危惧する。

 西川市長は「ぜひ旭川に移転し、遺族のご厚意に応えたい」と受け入れを決めたという。断り難い事情もあったのだろうと推察する。そうであれば、今後、この井上記念館ばかりでなく、彫刻美術館、博物館、科学館、図書館といった文化施設の人事を抜本的に見直す必要がある。学芸員や司書といった専門職が正しく身分を保障され、高い見識と専門性を持って文化施設を運営するシステムを構築しなければならない。庁内に「△△館の館長職は“窓際”と同義」のような空気があり続けるのは、文豪・井上靖の書斎を託される「北の文化のかおるまち」として、いかにも恥かしいべさ――。

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