畏敬する友人である農家にお願いして、今年も仲間数人と米づくりを体験させてもらおうと思っている。仕事の都合で私は参加できなかったが、すでに種を蒔いた苗床をハウスの中に敷き詰める作業を終えた。水田の主、米作りの師匠によると、ようやく五、六センチほどに成長した苗は、やや細身だという。昨年の記録を見ると、五月三日には田起しをしている。今年は、十一日になんとか田起しができるかどうか。

 「なんたってお日様が顔を出さないから、地温が上がらない。田んぼが乾かないから、田起しもできない。水を入れた後は、地温は上がらないから、ぎりぎりまで待つけど…」「百姓は、雨が降る度に地温が上がるって言うんだけど、今年の雨は冷たくて…」と師匠。知らなかった。土の中の温度が作物の生育に大きな影響を及ぼすなんて。乾いていない水田をトラクターで起こすと、タイヤ痕に水が溜まったりして、なおのこと乾燥が遅れ、地温は上がらない。春の田植え前のこの時期の天候が、秋の収穫の多寡を大きく左右するんだ…。

 土と遠いところで暮らしていると思っている私たち街の者は、「いゃあ、寒いねぇ。まるで、これから冬に向かうみたいだねぇ」などと、それほどの重みを感じずに時候の挨拶を交わす。が、耕す者にとってはまさに死活問題なのだ。一反四畝の田んぼを耕す私でさえ、早くお日様が顔を出して、土を温めてくれる日が続くことを祈るような気持ちで待っている。枕はここまで。

 実名と「六十九歳、男、元公務員」と記して、読者から手紙が届いた。井上靖記念館に、氏の書斎を移設するという小欄を読んでの感想である。その抜粋を紹介する。

 ――五十年も昔のことですが、学生時代に井上靖の小説に傾倒したと言っていいくらい読みました。今でも本棚にその頃読んだ本が並んでいます。今回、北海道新聞で大きく取り上げられたり、貴紙の「直言」を読んだりしたのがきっかけで、しばらくぶりに井上の本を読み返しているところです。いま読んでいるのは、「天平の甍(いらか)」で、改めて井上靖の世界に浸っております。本棚にある井上靖の本を順に読んでいくつもりでいます。

 さて、貴方の「直言」は、井上が生前使っていた書斎を旭川に移設(移築?)することに否定的なニュアンスが読み取れるのですが、小生も同じような感覚を持ったので、生意気ではありますが小生の意見として書いてみます。

 作家という職業の人は、ご自身の日常生活について、あるいは足跡、人生と言っても良いのかもしれませんが、どのように捉えているのか、根っから小市民の小生には想像もつきませんが、井上靖が自分が執筆活動をしていた空間・環境(書斎)を後世に遺したいと、生前に考えていたかどうか。読者の小生としては大いに疑問であります。

 遺族の心情として、遺したいと思うのは理解できます。庶民の感覚として、亡き父の、愛する母の、ともに人生を歩んだ夫や妻の、思い出が凝縮しているモノ、建物や部屋や机や椅子…、それらを生きていた時と同じ状態で置いておきたい、そのような感情はあっても良いでしょう。でも、通常は無理ですね。何十年、何百年、時代を超えて維持し続けることはできません。それが歴史的あるいは文化的な資料としての価値があれば別です。例えば、旭川で言えば、屯田兵屋とか、養蚕民家とか、忠別太駅逓第一美瑛舎とか、レンガ造りの上川倉庫群とか、ですね。

 小説家は、作品を遺しています。文豪井上靖が書き遺した膨大な数の作品は、時代を超えて読み継がれていくことでしょう。私は、氏の書斎の机や応接セットや調度品を全て合わせたものが持つ価値などというものは、氏が遺した一点の作品にも及ばないのではないか、そう推察します。きっと、氏は、自分の書斎を遺してもらいたいとなんて思っていなかったのではないかとさえ思います。本物の作家とは、そうなのではないか、いや、そうあってもらいたいと。

 旭川市は、この移設に八千万円を投じるといいます。そして今後、何十年、もしかすると何百年も、その維持管理のために少なくないお金が注ぎ込まれるわけです。その巨費を本来の文学の振興のために使う方法を考えた方が良いのではないか。貴方は、市の文化関連施設の「長」について提言しておられました。八千万円は、そうした文化施設の人事を抜本的に転換するための資金として使えないものか(井上文学の名だたる研究者を館長に招聘して、市民を巻き込んだ井上文学の研究・発信拠点にするなど)。「天平の甍」を味わいながら読み進みつつ、そのようなことを考えました。――

 「手抜きだー」との非難の声を承知で、今週はここまで。

ご意見・ご感想お待ちしております。