中学三年の、春だったと思う。農家の次男坊の友達が、叔父さんがいるブラジルに行って働き、将来はコーヒー園を経営するんだと言いだした。「お前も行きたいなら、話をつけてやる。船の食堂で皿洗いをすれば、安く行けるかもよ」と。移民船に乗ってインド洋から南アフリカを経て大西洋に出る航路をたどり、二カ月もかけてブラジルへ――。多分、あと一年半足らずで還暦を迎えようとしている私が、「夢」と言えるものを頭と体の中に煮えたぎらせたのは、人生であの一度だけだったような気がする。

 日曜日の朝、畑仕事を早めに切り上げて投票に行った後、何気なくテレビをつけたら、偶然「課外授業 ようこそ先輩」が映った。成功者やら有名人やらが、母校の小学校の教壇に立ち、後輩たちを相手に授業するという、あの番組である。大ファンではないが、少し前に放映された野球の野村克也さん、ノーベル賞の益川敏英さんらの課外授業は拝見させていただいている。

 この日の先輩は、演歌歌手・坂本冬美。小学六年生の後輩たちに、これからの人生を「設計させる」がテーマ。子どもたちは、それぞれの短い過去の良かったこと、悪かったことを振り返り、長い将来の設計図をつくる、というわけだ。

 男の子の一人が、「将来はプロ野球選手になる」という夢を描いた。「まず二軍の選手になって、それから頑張って一軍に…」と控え目な、彼にとっては少し現実的な夢。自らを成功者だと自認する演歌歌手は指導する。「どうして最初から一軍じゃないの?」「まず一軍を目指さなきゃ。目標を高くもって、だめだったらまた努力して…」、文句は多少違っているかも知れないが、そんな主旨の尻叩きである。

 五歳から歌手になるという夢を持ち続け、その夢を見事に実現した演歌歌手は、きっと才能があり、負けず嫌いで、努力家で、その上、大いなる好運も味方して、だから、現在がある。彼女は、格別な方なのだ。万人の人生が、彼女の成功体験と相似形となるとは限らない。いや、その可能性は限りなくゼロに近いと言っていい。

 夢など、無理して持つ必要などどこにもないのだ。仮に持ったとしても、それはあくまでも夢でいい。万一、実現したら、それは僥倖だ。で、課外授業に「ようこそ先輩」と迎えられる人になる。

 将来を諦めろ、自分の未来を悲観せよ、と言っているのでは決してない。いたいけな子どもに向かって、「夢を持たなくちゃだめだ」「夢に向かって頑張れ」などと、途方もなく非現実的な精神論を押し付けるな、と言っている。目の前の、しなくてはいけない務めに、できる範囲でいいから、一生懸命に向かっていけば、それで十分ではないか。「いいお母さんになりたい」と夢みる女の子の、いかに健全なことか。

 六十歳を過ぎてから、会社の経営は息子に譲り、農業法人を立ち上げて農家になった友人が、こんな話をしてくれた。彼は法人の名前を「グランパ農園」と名付けた。農業の将来に価値を見い出し、孫のために食糧を生み出す職場を遺したい、そんな思いが込められている。その彼が言う。「今まで、グランパ農園を継ぐって言っていた孫が、『じいちゃんごめん、オレ継げなくなった』って言うんだ。『オレ、プロ野球の選手にならなきゃならないから、グランパ継げなくなった』って、ハハハ」。小学三年になった孫が少年野球のチームに入ったらしい。子どもの夢なんて、この程度でいい。

 夢を持つことを強制された結果、八・九億円の報酬を手にする経営者がいるような大企業に入社する夢を抱き、幼稚園から受験競争に巻き込まれながら必死で頑張ったが、何らかの理由があって途中でドロップアウト、子どもの頃から見続けた高給ホワイトカラーへの夢を引きずって契約社員の身分でそれなりの会社に職場を得たが、リストラに遭った途端にホームレス…。そんな、一度失敗したら二度と這い上がれない世の中が深度を深めているせいか、このところやたらと「夢を持て」だの「夢をあきらめるな」だの、いわれなき鼓舞の声を耳にする機会が増えた気がする。まるで、広がり続ける格差社会の実態から、民草の目を逸らさせるかのように。

 参院選挙の結果が出た。わずか十カ月前に歴史的な政権交代を果たした与党・民主党は、大敗した。連立を組む国民新党は当選者なし。衆院・参院のねじれ。国会はしばらく、党利党略が絡み合った混乱、ドタバタが続くことになるだろう。

 願わくば、ちょっと目端が利く、押し出しのいい輩ばかりが利を得る社会ではなくて、「いいお母さんになりたい」とか、「じいちゃんの農場を継ぐんだ」とか、慎ましやかな、地に足がついた“夢のようなもの”をぼんやりと胸に抱いて、まじめに、控え目に生きようとしている、この国の普通の人々が、必要以上に裕福でなくても良いから、割を食わないような、そんな社会に早く近づくための、そんな政治をしていただけたらと、この国の普通の人々の一人として、零細企業の経営を預かる者の一人として、政治家の皆さんにお願いするところでありまする――。

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