福島県いわき市で生まれ育った獣医師・武藤健一さん(68)に誘われて、フクシマを訪ねる旅(五月二十八―三十一日)のリポート三回目。

現地でガイドをお願いした「被災地フクシマの旅」実行委員会の渡辺勝義さん(65)の案内で、浪江町から国道六号線を南下。東電福島第一原発が立地する双葉町、大熊町を経て、富岡町に入った。

昨年四月一日に、桜並木で全国に知られる夜ノ森地区の一部を除き、避難指示が解除されたが、帰還した住民は三・二%ほどだという。国道沿いのケーズデンキ、コメリ、ツルハなどの店舗は、原発メルトダウン、全町避難から七年を過ぎ、閉じられたまま荒廃が進んでいる。

武藤さんが運転する車は、夜ノ森地区の桜並木に向かった。道路一本挟んで、右側はいまだに帰還困難地域、左側は昨春、避難指示が解除された地域だ。渡辺さんは、「右側が線量が高いから、避難指示が解除されないんじゃない。一丁目とか、二丁目とか、単に住居区分で分けられたんです」と説明する。道路脇に立ち並ぶ電信柱には、「子どもたちの未来のために 東北電力」「地域とともに 東北電力」の看板が掲げられている。

避難指示が解除された地区では、マンションやアパートの新築ラッシュだという。原発の廃炉や除染作業に従事する人たちの需要を見込んでのこと。もとの住宅の解体費用は東電なり国が負担し、更地にして専門業者がアパートやマンションを建設する。原発事故がビジネスを生み出しているのだと渡辺さんは説明した。アパートの建築現場に近いところで空間線量を測ったら、〇・三二〇マイクロシーベルト毎時(以下μSv/h)。年間二・八㍉シーベルト(以下mSv)。この数値が何を意味するか、分からない。ただ、東電福島第一原発がメルトダウンする以前は、一般人の公衆被ばく限度は年間一mSvだった。

その日は、常磐自動車道を使って相馬市に戻った。途中、大熊町の空間線量は三・〇一μSv/hだった。その夜は、松川浦の旅館に宿泊。地元産の海鮮料理をいただいた。松川浦は、第一原発から四十数㌔の距離である。

翌朝、再び渡辺さんと合流し、飯館村に向かった。渡辺さんの出身地。原発事故の前まで、この村に住んでいた。第一原発から三十数㌔の距離にある村は、事故からほぼ一カ月間、放射能の影響はないとされ、六千五百人の村民は普段の生活を送っていた。ところが、その後大量の放射能が降った事実が明らかになり、全村避難が指示される。昨年三月三十一日、長泥地区を除いて避難指示が解除されている。

山道を抜けて、飯館村の大倉地区に入った。二〇一一年三月十一日まで、「日本で一番美しい村」の一つだった。橋の上から、森に囲まれた村落を眺める。ウグイスの鳴く声が聞こえ、ツバメが虫を捕まえようと飛び回る。武藤さんが、「典型的な阿武隈山地の山村の景観だよ」とつぶやく。原発事故がなかったら、今頃は田植えも終わり、緑のストライプが晩春の風に揺れているであろう水田の跡に、除染で排出された汚染土や樹木などが詰め込まれた黒色のフレコンが積み上げられている。どこかの工事現場に埋め戻すためなのか、クレーン車がフレコンバッグを吊り上げて、ダンプカーに積み込んでいる。

(工藤 稔)

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