文房具店「江口日曜堂」(六ノ八)の経営者、江口建二さんは、昭和七年(一九三二年)二月十一日、現在地で生まれた。この日は、初代天皇とされる神武天皇の即位した日とされ、敗戦後、占領軍(GHQ)によって廃止されるまで「紀元節=建国祭」と呼ばれる祝日だった。「建国祭の日に生まれた二男坊だから、建二なんですよ」と江口さんは笑う。

 江口さんは、クリスチャンだ。父親、母親とも新潟の出身でカトリックの信者だった。父親は小樽の文房具店で修行した後、一九二六年(大正十五年)、現在地に文房具店を開店した。「親父は、月曜日から土曜日まで、うそを言って金もうけして、日曜日になると教会に行って懺悔して献金すれば罪が許されるというのではいけない。毎日が神の裁きを受ける日曜日の連続でなければ、そう言って「江口日曜堂」と名付けるんですよ」と店名の由来を教えてくれた。

 江口さんは、小学校時代の写真や卒業証書、戦中のガリ版刷りの様々な書類などをファイルに入れて保存している。その中に一九四三年(昭和十八年)八月、父親が勤労報国隊として雨竜郡沼田村(現沼田町)の昭和炭鉱に徴用された記録があった。下駄工業組合、家具商業組合、料理店組合、仲立業統制組合などから抽出された、二十一歳から五十二歳までの、三十五人の男性の名前が記されている。父親は当時、四十四歳だった。市職員が引率し、八月二十一日から十月十九日までの六十日間、炭鉱で働かされた記録である。妻と四人の子どもがいる四十四歳の商店主が、国の命令ひとつで否応なく炭鉱に送られる、そんな時代だったのだ。

 一九四一年(昭和十六年)十二月八日、日本軍の真珠湾奇襲攻撃で始まった太平洋戦争の勃発時、江口さんは中央国民学校の四年生だった。一九三一年(昭和六年)の満州事変から、日本は常に戦争をしている状況で、まして第七師団がある軍都・旭川にいても、小学生だった江口さんには、戦争の気配は実感としてなかったという。

(工藤 稔)

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