六日未明、地震で飛び起きた。家が「ミシミシ」と鳴った。揺れが続いたのは数秒か十数秒か。実際より長く感じた。潰れはしまいな。一瞬、家を建ててくれた友人の顔が頭に浮かんだ。「震度四って、かなりだな」などと話しながら、家人と居間でテレビを見ていたら、二十分ほど後に、電気が消えた。そこで初めて、「停電だ。地震のせいだ。大ごとだ」と気付いた。手探りでラジオと懐中電灯を探し出して、携帯電話が通じることを確認した。北海道内丸ごと停電しているとラジオで聞いた。「よし、街の様子を見に行こう」。車で出かけた。

 交差点の信号が消えている。車の通行は少ないが、そこそこある。いつもは明るい旭橋の灯も見えない。赤十字病院は自家発電なのだろう、電気がついていた。コンビニはどうなんだ? 四条通の一軒目では「レジが動かないので」と車でやって来る客にわびていた。教育大近くの二軒目は、店を開けていた。「非常用電源で一時間くらいは持つと思う」とオーナーらしき男性。お客が次々にやって来て、菓子パンやら、弁当やら、ペットボトルの水やらを買っていた。

 「〇・〇〇四」という数字が頭に浮かんだ。市役所の現庁舎を建て替える一番の理由になった、一九九七年の「耐震診断」で示された数字である。まさか倒壊していないよなと思いながら、向かった。全ての人工的な明かりが消えた空に、星がたくさん見えた。赤レンガ庁舎は、ちゃんと建っていた。「震度四でも全然大丈夫じゃん」。政府の地震調査委員会が公表した今後三十年以内に震度六弱以上の揺れが発生する確率を示す全国地震動予測地図の二〇一六年版では、都道府県庁と総合振興局・振興局の所在地、計六十一カ所の中で旭川は六十一番目。震度六弱以上の地震が起きる確率は限りなくゼロに近い、ということだ。
 元・旭川市助役(今は副市長)波岸裕光さんのエッセイ『山あり 波あり』が二十三面に載っている。分かりやすく言えば、旭山動物園が全国に知られる「きっかけ」をつくったキーマンの一人、とでも言えばいいか。現役時代、「手柄は部下に、失敗の責任は全て引き受ける」という方だった。今号のタイトルは「ピッカピカの庁舎」。波岸さんが、旭川にとっての世紀の一大プロジェクト「北彩都開発」に取り組んだ当時のエピソードである。まちの〝大統領〟が、「文化と歴史を大事にする」資質を持ち合わせているか、いないか。それが、とても大事なことなのだ。
 手続きを踏んで着実に進められて来たように見える新庁舎建設の動きが、足踏みをしている。滞っている。二カ月後に市長選挙を控えている事情もあるのかも知れない。この機会に、腰を落ち着けて新庁舎建設について改めて振り返ってみると、西川将人市政が、かなり強引に、相当の無理をしてこの事業を進めてきたことが分かる。

 例えば、二〇一五年度に旭川市が策定した「旭川市第八次総合計画」との整合性の問題。この「総合計画」は、一六年度から十二年先の近未来までの、まちづくりの「指針」を定めている。市の様々な施策の最上位に位置する「理念」に他ならない。総合計画審議会、総合計画市民検討会議、次世代ワーキンググループ、若手産業人ヒアリング、地域まちづくり推進協議会、まちづくり対話集会の議論や意見集約など、大変な手間と時間をかけて策定した都市づくりの基本方策は、明確に次のよう謳っている。

 「少子高齢化・人口減少や社会資本の老朽化が進む中、将来世代へ健全な資産として引き継ぐため、五十年、百年先の都市の在り方を見据え、『造る』から『保全・活用』への転換を図ります」

(工藤 稔)

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