一九二三年(大正十二年)生まれの亡父は、私が小学生の頃、眠る前の布団の中で、一兵卒として従軍した軍隊の話や、捕虜となって抑留されたタシケント(現ウズベキスタンの首都)時代の話をしてくれた。小学三年から六年にかけて、私がせがむものだから、父は同じ話を何度も聞かせてくれた。特に、タシケント時代の話は「シベリアエレジー」と名付けて、劇場建設の女性監督との淡い恋のエピソードなどを「母さんには内緒だぞ」などと言いながら、繰り返し聞かせてくれたものだった。八月十五日の「敗戦の日」にちなみ、深く記憶に残っている“父の戦争”を思い出してみる。

 ――父さんがいたのは、満州の飛行場だった。痔が悪くなって病院に入っている間に、もともといた部隊は遠くに移動してしまい、飛行機の整備をする部隊に入った。その頃、満州にはまともな飛行機はほとんどなくなっていた。ある日、飛行機を飛べるように修理せよ、という命令があった。何機かある中で程度の良い練習機をみんなで修理した。その飛行機に乗って、部隊の偉い人は飛んで行っちゃった。情報が入って、逃げたんだな。父さんたちが「戦争が終わった」という話を聞いたのは、それから間もなくだった。大急ぎで、何日かかけて飛行機を整備して、滑走路に運び出したら、上空をソ連の飛行機がブンブン飛び回っていた。残っていたガソリンを土を掘って隠したり、書類を燃やしたりしているうちに、ソ連軍がやって来て、銃を取り上げられた。「武装解除」ってやつだ。

 ――貨車に乗せられた。シベリア鉄道だ。どこに連れて行かれるか分からない。汽車が停まって、下ろされた。駅の横に、新しい大きな食堂が建っていた。戦争が終わって三カ月もしないうちに、捕虜を運ぶ計画を立てて、大きな食堂まで建てている。ソ連ってすごい国だなぁって思った。食堂で出たのは、実がほとんど入っていないスープと、固い黒パンだった。うまくはなかったけど、ありがたいと思った。

 ――そうやって何日か走った。誰かが「日本海だー。日本に帰れるー」って叫んだ。みんな「バンザーイ」「バンザーイ」って。だけど海じゃなかった。大きな湖だったんだ。バイカル湖だったんじゃないか。途中で汽車が二日も三日も停まったりしながら、着いたのはタシケントだった。そこで国立劇場を建設する仕事をした。現場監督は女の人だった。その人に父さんは気に入られて、煉瓦を運ぶ仕事から、炊事場に移された。それまで、意地悪なことをした上官が、スープを盛る父さんにペコペコするようになった。肉が鍋の下に溜まっているから、かき回してくれって。

 ――二年間、そこで働いて劇場を完成させた。指揮をした隊長は立派な人だった。その工事で死んだ日本人捕虜は二人。高い足場から落ちて死んだのが一人。もう一人は交通事故だった。同じタシケントに送られた捕虜でも、ダム建設の現場では何百人も死んだって聞いた。人の運って、分からないものだ。日本に帰ることが決まったとき、現場監督から「残って、結婚してほしい」って言われた。あの時、日本に帰って来なかったら、お前は生まれていないんだぞ。

 小学生の頃、家には、父とともに満州からシベリアへと旅をした、ゴワゴワで重い毛布や、飯を炊く飯盒(はんごう)、柄の先が丸い小さなスコップなど、戦争を想起させるモノがあって、実際に使う場面もあった。戦争は、つい十年ほど前の、現実だった。

 前号で、開幕から三日で中止に追い込まれた「あいちトリエンナーレ」の企画展「表現の不自由展・その後」について書いた。従軍慰安婦を表現した「平和の少女像」などに対する、脅迫や政治家の常軌を逸した猛烈な圧力に主催者側が屈した。その後の報道を見るにつけ、私の父母の世代が体験した、あの戦争の具体的な出来ごとは、歴史から“抹殺”されようとしている、そう思えてならない。例えば、松井一郎・大阪市長の発言。

(工藤 稔)

(全文は本紙または電子版でご覧ください。)

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