私と違い科学者としての知見がある友人から、少し前にメールが届いた。その一部を紹介しよう。


 ――「緊急事態宣言」なるもの、勝手に出しておいて、今度は、本当に収まったのか定かでないうちに、勝手に解除するとは。なんとも仕方のない国だなと思います。

 「感染者」を「発症者」「その濃厚接触者」に限定しているとしか思えません。本当の意味での「感染者」とは、「発症者」「その濃厚接触者」に「不顕性(症状のない)感染者」を含めたものでなくてはならないのになあ。

 疫学的には「イロハのイ」ですよ。それをしないで、「感染者数が減った」はないと思いますよ。

 専門家会議なるものも、ゴモクタ言ってばかりで、はっきりとモノ申さない輩が多すぎです。尾身氏はその典型です。ちゃんとそういう爺さんを選んでくるから、恐れ入りますよ。

 福島原発の時と同じような(もちろん中身の質は全く違いますが…)図式で、感染者発生数を「少なく、少なく」見せようとしているとしか思えません。(引用終わり)

 道知事が二十九日、「新型コロナ」により四十二日間続いた事業者に対する休業要請を六月一日午前零時に全面的に解除すると発表した。新たな生活様式「新北海道スタイル」の実践を前提に、経済活動を再開してよい、という意味らしい。

 このまま、コロナは収束に向かうのだろうか。岩見沢市では美容室でクラスター(感染者集団)が発生していると報じられ、二十三日連続で感染者がゼロだった北九州市では一日あたりとしては最多の二十六人の感染が確認された。市長が会見で「第二波のまっただ中にいる」と述べる事態にある。脅かすわけではないが、私たちの地域もいつ「第二波」の襲来を受けるか分からない。

 百年前、一九一八~一九年にかけて世界を席巻したスペイン風邪は、第二波の致死率が第一波の十倍に達し、しかも十五~三十五歳の若年層が最も多く死んだと記録されているという。日本でも、約二千三百万人が感染し、約三十八万人(四十五万人という推計も)が死亡したと伝えられる。

 「旭川市史」(第三巻)に「流行性感冒と学校閉鎖」の記録が残っている。以下。

 ――(前略)大正七年(一九一八年)十一月晩秋から初冬にかけて頗(すこぶ)る悪性の感冒が流行し(世界的に流行してスペイン風邪という)就学児童の感染者が多く、学校衛生の立場から、ついに閉鎖することになった。このように処置のとられたことは、今までに無かった。これより、罹患児童の数によって、休校するようになり、今日に至る。当時の学校閉鎖は次の通り。

 中央校 五日~二十二日(略) 朝日校 一日~二十二日(略) 豊栄校 十六~三十日(後略)

 当時、いかに猖獗(しょうけつ)をきわめたかが、この休業日数から推して知られる。

 なお、この悪性感冒のため死亡した者も多く、わが国の伝染病の流行史としては、記録されるほど、猛威をふるつたものであった。(引用終わり)

 つまり、スペイン風邪の第二波が、現在も行われる「学校閉鎖」を生んだというわけだ。残念ながら当時の旭川町の感染者や死者のデータはないが、市史に記録されるほどの規模だったのは間違いない。当時の日本の人口は五千六百万人ほどだから、三十八万人が死んだとすると、一万人に六十七人が死ぬ確率だ。一九一八年当時の旭川の人口は約六万五千人。四百三十五人が亡くなった計算になる。

(工藤 稔)

(全文は本紙または電子版でご覧ください。)

●お申込みはこちらから購読お申込み

●電子版の購読は新聞オンライン.COM

ご意見・ご感想お待ちしております。