春から、陶芸を習っている。きっかけは「コロナ」。自粛要請に従うなどもってのほかだと、努めて「街」に出ようと心がけたのだが、付き合ってくれる悪友も限られて、家で惰眠をむさぼる時間が増えた。そんな時ふと、陶芸家に憧れた半世紀も昔を思い出した。以前から、習うならこの方と決めていた先生もいる。よし、始めようと決心がついた。

 毎週土曜日の午後、仕事を終えてから車で東川町に向かう。師匠は、小紙に十八年にわたってコラムを書いていただいた滝本宣博さん(70)。奥さんののり子さんともに陶芸工房とギャラリーを備えた理想夢工房を営んでいる。滝本さんは、京都で長く修業した本物の職人、そしてアーティストである。

 滝本さんはコラムの最終回(三月十七日号)で、工房の名前の由来と陶芸家としての理念、哲学を書いている。長く執筆していただきながら、そんなことも知らなかったのかと我が身を恥じた。それも陶芸を習おうと決めた動機の一つであった。師匠、いわく。

 ――私の解釈は、人生の目標に向かって猪突猛進するな。障害物にぶつかったら乗り越えずに、沢山ある脇道の中の一つをゆっくり歩め。すると目標を見る視点が変わり新しい人生の価値観が生まれ目標も変化する。初志貫徹はするな、です。それ以来、私の生き方は陶芸家として大成するのが目標ではなく、陶芸家という職業を手段にして、種種雑多な経験を楽しんでいます。(引用終わり)

 このような理想夢工房の陶芸教室は、とても自由だ。だいたい二時間、粘土をこねたり、のばしたり、削ったりして、八百円。完成した作品は、なんと百㌘百円。材料費だ。初めて作ったカレー皿は、だいたい五百㌘だったから五百円、二作目のどんぶりは、六百㌘で六百円だった。面白いでしょう?

 「すごい」と感心するのは、私が作った皿もどんぶりも、形は少し歪(いびつ)で、どこか美しさに欠けるのだけれど、とても使いやすいのだ。師匠の「教える技」のせいだと思う。全くの初心者だから、完成形のイメージを持たずに、ただただ教えられた通りに作業する。その結果、産み出された道具が一定程度の機能性を有するのだ。指導する者の力以外の何物でもない。

 二週間に一度、一時間から一時間半、粘土に集中する。子どもの頃の一人遊びを追体験しているような、えもいわれぬ心地よさ。三作目は、白のどんぶりをもう一つ。できれば見た目も美しく仕上げたい。枕はここまで。

 先日、会合で美瑛の温泉ホテルに一泊した。参加した会合が六十人ほど。一般の宿泊客は三十一人とのことだった。会合の懇親会は、間隔をとって一つの丸テーブルに八人。料理は、地元美瑛産の素材をふんだんに使い、とても美味であった。朝食は、バイキングだった。客は全員、ビニールの手袋をして料理を取る。後日、ホテルの支配人に電話で話を聞いたのだが、彼は「あれって、客観的に見れば異様ですよね。美味しい料理を取っているのに、汚いものでも触るみたいで」と笑った。「実際は手を消毒してもらうことで十分だと思いますよ。プラゴミを減らそうという流れにも反しますしね。ただ、コロナ対策を徹底しているゾ、という姿勢を見せる必要がありますからね。しばらくは続けなければならないんでしょう」と話した。

(工藤 稔)

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