国鉄を五十五歳で定年退職した亡父は、その年の夏、肺がんで死んだ。一九二三年(大正十二年)の生まれだから、生きていれば九十七歳になる。その妻、つまり私の母親は、父と二歳違いだから、九十五歳。今も独り暮らしで、「赤飯を炊いたから、取りにおいで」などと電話をくれたりする。

 その母親のすぐ上の姉の夫、僕の伯父にあたる人は、僕の父親より四歳年上。戦時中、中国で憲兵をしていたという。「頭のいい人で、高等科を出るときは総代を務めたのでなかったかしら。まじめで、勤勉な人だったはずが、戦争から帰ってきたら性格が変わったみたい」と、以前、母から聞いた。

 僕の父も一兵卒として満州で終戦を迎えているが、父と伯父が軍隊時代の話をしたことがないと、母は言う。「話したくなかったんでしょう」と。話したくないのは、自分の夫なのか、姉の夫なのか、それは分からない。

 伯父は、学校を出て兵隊に取られる前に国鉄に入っていた。戦争を生き延びて日本に帰り、国鉄に復職した。小中学生の僕が知る伯父は鉄道公安官の制服を着ていた。軍隊時代の「憲兵」の経験を買われたのかもしれないと、僕は思ったりする。

 母の姉は、その伯父の暴力に泣かされた。母からの伝え聞きだから正確ではないかも知れないが、常軌を逸する暴行が伯母の身体に振るわれたのだという。晩年、伯母の両足が不自由だったのは、その後遺症だと母は言う。

 僕は一九五一年生まれ。二歳下の東京生まれの家人と話して分かるのだが、戦争から十年そこそこのあの時代、父母の兄弟・姉妹同士の付き合いは、今では考えられないくらい濃密だった。戦後のベビーラッシュの状況下、そうした相互扶助は都会も、田舎も、変わらなかったのだろう。だから伯父一家の決して広くない鉄道官舎に、母と私たち姉弟の三人が、三泊も四泊もした。毎年の夏休み、冬休みにである。伯母は、私たち姉弟を自分の三人の子どもと同じように扱った。公平だった。僕はそんな「おばちゃん」が好きだった。

 伯父は、私たち姪・甥に普通に優しく接した。その伯父が、おばちゃんに対していわれのない暴力を振るったという話を聞かされたのは、僕が四十歳代になってからだった。僕は直感的に、母親が「あの人は北支で憲兵をしていたはずだよ」と話していたことと結び付けて考えた。伯父は自ら非人道的な行為をしたり、日常的に目にしたりして、精神を病んだのではないか、それがおばちゃんへの暴力となって現れているのではないか、と。

 今年春に出版された村上春樹のエッセイ『猫を棄てる―父親について語るとき』を読んだ。その一節に次のようにある。

(工藤 稔)

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