東鷹栖の郷土史を研究している松田光春さん(72)がこのほど、昭和七年(一九三二年)に起きた北海道大洪水についての冊子を刊行した。松田さんは四年前に明治三十一年(一八九八年)の北海道大洪水の惨状をまとめた冊子も発行している。

 両冊子によれば、明治三十一年の洪水では全道で二百四十八人が死亡。家屋は二万四千百六十三戸が浸水し、千三百四十二戸が倒壊、千八百十四戸が流された。一方、昭和七年の洪水では二十四人が死亡。家屋は一万千三十五戸が浸水し、八十戸が倒壊、また十七戸が流出している。

 今回、松田さんが編集を進める上で分かったのは、明治三十一年の洪水時には軍の工兵隊などが救援に出動したのに対し、昭和七年は軍のサポートがまったくなく、消防団や自警組合の出動に限られたということ。松田さんはその理由について「時代はちょうど満州国の誕生にあたる。その方面の非常事態に備えて、軍は災害救助には出動しなかったのではないか」と話している。

 両冊子とも五十冊ずつ発行。大学、開拓記念館、また旭川開建や土木現業所など、河川維持関係の役所にも寄贈した。販売はしないが、市図書館で閲覧できる。

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 松田さんは九九年(平成十一年)から年に一冊のペースで、東鷹栖や周辺地域に関連する冊子を発行している。毎年発行を続ける背景について、松田さんはこう語っている。

 「明治二十五年に鷹栖村が生まれ、大正十三年に鷹栖村から分村したのが東鷹栖村です(昭和四十三年に町制施行)。私が非常に憤りを感じるのは、昭和四十六年に旭川市と合併するまでの七十九年間の公的資料を、この合併時に町役場で焼却処分したということです。文献、議事録、松平農場に関する資料など、ほとんどが焼かれました。実際の作業にかかわった人から証言も得ています」

 「先人の足跡、東鷹栖の歴史として価値のある資料を何故に焼かねばならなかったか。私たち歴史を研究する者にとっては犯罪に等しい行為です」

 「合併当時の東鷹栖町は非常に閉鎖的で、行政為政者の力が強い町でした。当時、財政再建のために上川支庁から派遣された課長は大変な冷遇を受けたそうですが、彼から二重帳簿の存在があったと聞いています。こうした書類を闇に葬るために、何から何まで全て焼却したのではないかと推察しています」。

 焼かれてしまった書類は今さら取り戻しようもないが、出来る限り東鷹栖の歴史について書きとめ、史実を後世に残したい、と松田さんは話している。