昨年十二月、八十二歳で亡くなった旭山動物園元園長の菅野浩さんのお別れの会が十三日、セレモニーホール・ウィズ・なかむら(豊岡四ノ十)で開かれ、動物園や文化団体の関係者ら約百七十人が故人をしのんだ。

 菅野さんは樺太(サハリン)生まれ。北大獣医学部を卒業後、旭川市に入庁。保健所勤務を経て、旭山動物園の準備段階の一九六六年から、退職までの約三十年間、動物たちに寄り添う生活を送った。園長を務めた十年の間には、ゴリラとワオキツネザルがエキノコックス病で死亡し、閉園の危機に直面することもあったが、「奇跡の復活」と評される現在の動物園の繁栄につなげる基礎を築いた。

 文化面でも多大な功績を残した。劇団「やまなみ」の代表として演出を担当し、三浦綾子記念文学館や旭川文学資料市民の会、井上靖文学館などの運営に深くかかわった。

 弔辞を読んだ北大獣医学部の同期、波岸裕光さんは「十二月六日に菅野さんを札幌の病院に見舞い、別れ際の『また来てくれ。ありがとう』という言葉が最後になってしまった。保健所勤務の時、『どうしても会いたい』と言われ、仕事が終わった後、遅くに会うと、『動物園に賭けてみたい』と切り出してきた。私は『カンちゃん、やれよ!』と言った。その後の動物園運営の見事さは論を待たない。私が胃ガンを患った時、『大事にしろよ』と言ってくれた菅野さんが先に逝くとは…。いずれカンちゃんのところに行く。ご苦労さま」と故人を偲んだ。

 現動物園園長の坂東元さんは「エキノコックスで入園者が激減した時も、菅野園長は『客を増やせ』とは一度も言わなかった。足を運んでくれるお客さんに何を伝えなければならないかを淡々と教えられた。現在、飼育員が行っているワンポイントガイドや夜の動物園、冬期間の営業など、すべて菅野園長が行ったもので、今につながる原点があった」と声を時折詰まらせながら語った。

 長男の壮さんは、菅野さんが大好きだったという小熊秀雄の詩の一節「ここに理想の煉瓦を積み/ここに自由のせきを切り/ここに生命の畔をつくる/つかれて寝汗掻くまでに/夢の中でも耕さん」をあげ、「父の人生は、このような精神とともにあったのかもしれないと思う」と参集した人たちにお礼の言葉を述べた。