年賀状を頂きながら、返信していない不届き者であります。完璧な弁解ですが、気持ちはあるのです。ただ、賀状というものは本来年が明けてからしたためるべきであろう、などと屁理屈をつけて正月を迎え、飲んじゃ寝ての三が日を過ごし、そのうちに寒中見舞いと合併にするか、となって、ふと気が付けばすでに三月。この時期に寒中見舞いもないであろうと、「新緑の項…」で始まる便りもオツかもしれぬ、と先延ばしにし、そのうちに暑中見舞いの季節になって…。やめましょう。要するに、どうしようもない不精だということでありまする。

賀状をいただく友人・知己のほとんどは弊紙を購読してくださっていると信じ、失礼ながらお顔を存じ上げない読者の方々への新年のご挨拶と併せ、紙面を借りて「明けましておめでとうございます。くれぐれもお見限りにならぬよう、今年もよろしくお願いします」。

年末から年始にかけて、契約を切られて職も住まいもなくした派遣労働者の悲惨さを報じるニュースが繰り返し流された。東京・日比谷公園で炊き出しの列に並ぶ彼らの姿をテレビ画面を通じて眺めながら、時代感覚を失くしたような気分に襲われた。いいように搾取され、使い捨てられる労働者…まるで、祖父や父が生きた時代、蟹工船や女工哀史といった、歴史教科書の中の出来事そのままではないか。

戦前・戦中を経て、天皇陛下が神様ではなくなった戦後から現在まで、こうした職も住む家もなく、食べるものさえ事欠く人が、層が、出来るだけ無い社会を目指して、私たちは学んだり、働いたり、議論したりして来たのではなかったか。少なくても戦後教育の中で育った私はそう教えられて来たし、シベリア抑留を経験した父も、千人針を体験した母も、そのように生き、そのように教えたと信ずる。私たちの社会は、いつから、蟹工船や女工哀史の時代に逆戻りすることを容認するように成り下がったのだ。

マスコミの報道に接する限り、あたかもキヤノンやトヨタといった派遣社員との契約を打ち切った大手企業を悪者に仕立てようとしているやに映る。だが、企業は、あくまで法律で認められた範囲の中で経済行為を行っているに過ぎない。作ったモノが売れなくなったら、作る量を減らす。当然、作る人は余る。その余剰の労働力は、派遣会社から調達している分を削る。想定通りなのだ。元々、国が折り紙付きで認めてくれた「雇用の調整弁」なのだから。マスコミが責めるべきは、国と政治だ。その国や政治に働きかけたであろう大企業が全くの潔白とは言わないけれど。

はるか昔、学校で習った基本的人権という言葉を思い出した。同じ職場に働く労働者なのに、「正社員」は厚生年金も健康保険も、もちろん雇用保険の制度の恩恵も受けられる。一方の「非正社員」である派遣社員の多くは、そのどれも対象外。派遣労働の規制を大幅に緩和した法律は、「多様な雇用形態」などと、いかにも働く者の事情や意向に沿って、というニュアンスを含む言葉を用いながら、その実は格差以上の差別を認める、いわば基本的人権を侵害する、憲法違反の疑いさえある悪法ではないか。

それにしても、派遣労働の契約を打ち切られ、企業から与えられていた寮の一室を追い出された途端、路上生活者にならなければならない人が数百人単位で現れる現実に、呆然とした。彼らには、「次の仕事が見つかるまで、ちょっと面倒見てください」と緊急避難できる家族や親戚はいないのだ。社会を形作る基礎単位の家族、あるいは家庭が壊れ、機能しなくなっている。世界同時不況だと騒がれるが、私たちの国の、この異常な有様に、慄然とさせられる〇九年の幕開けだった――。

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