朝青龍が優勝した翌朝、社に電話があった。その声から想像するに、妙齢の女性。お名前はお聞きしなかったが、長年の読者だという。「編集長さんの意見が聞きたくて…」と話し始めた。「昨夜、テレビで朝青龍の優勝パレードを見たんですが、モンゴルの旗を振ってるんです。モンゴルの人だから、その旗を振るんでしょうけど、相撲は日本の国技です。せめて、モンゴルの旗と一緒に日の丸も振ったらいいのにと思って。どうお考えですか?」と真剣な声で尋ねる。

今号の十六ページ、荻野ひとみさんのエッセーにもあるが、私もへそ曲がりで、熱烈なファンではないけれど、進退を賭けて臨んだと言われた今場所は、朝青龍を応援した一人。「モンゴルの旗と日の丸とですか…」、答えに詰まった。そして、「サッカー事件から一連の報道を見ている限りでは、あの親方、元朝潮の指導力がないということじゃないですかね。朝青龍が日本をなめてる、相撲をなめてるということじゃ決してなくて、親方がなめられてる、そんな気がしますけど」と答えた。我ながら、つまらない答えだなぁと思いつつ。異国の力士が土俵に上がって、いろんな見方があって、様々な意見があって、だから相撲が盛り上がる、いいあり方じゃないか、そう感じさせられる朝の電話だった。ただし大麻騒動はいただけないけど。枕はここまで。

友人のご母堂の通夜と葬儀に参列した。いつものことながら、坊さんにはもっと説教の練習をしてもらわなければ、と思った。弔事という場所柄、聴衆は否が応でも黙って聞かなくてはならない。ヤジも、拍手も、ご法度の状況。まして、多くの場合、遺族は心身ともに疲れているはずである。耐えられるのは三分、長くても五分だろう。話があっちに行ったり、こっちに飛んだり、何を言わんとしているのかさっぱり分からない駄話なら、そんな短い時間でも消耗すること甚だしい。その揚げ句、「お浄土に行って、仏様のお弟子になられる」なんて話を締めくくられたって、聞く側は有難くもなんともない、「何言ってんだか」である。

年末年始の年越し派遣村の情景をテレビ画面で見て、仏教界はこんな時こそ、仏様の有難さを広く知らしめるべきなのにと感じていた。颯爽とBMWにお乗りになったり、幼稚園の経営に熱中するのもいいけれど、ホームレスの人たちを含めて、広い境内を開放してテントを張ることを許したり、檀家と呼ばれるボランティアを動員して炊き出しをしたり、こうした危急の折に、お寺だからこそ出来ることがあるのではないかと。そのために日本の民は、仏教が伝来して千五百年以上、お寺やお坊さんに救われた歴史もあるには違いないが、様々な形でお寺を支え続けて来たのではなかったか…。

などと毒づきたい気分でいたら、ようやく、新聞に「失業者に駆け込み寺」の見出しを見つけた。いわく「連合北海道が札幌の本願寺札幌別院の協力を得て、求職者に一時的な居住スペースを無償提供し、就職活動を支援する」(読売新聞二月一日付)のだそうな。連合が借り受けた大広間を共同利用する形で、食事の提供はないが布団を貸し出し、女性用の部屋も用意するという。あぁ我が意を得たり。全国のお寺で、社会の網の目からこぼれてしまった、こぼれ落ちそうな、そんな人たちに向かって、積極的に手を差し伸べる事業を始められたら、この国の未来は暗くない、まだ希望がある、そんな気がする。

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