「お寺とお坊さん」について書いた二月三日と二十四日付の本欄に、たくさんの反響が寄せられた。「その通り」という方と、「何を言っておるんだ」とお怒りの方が、半ばするという感じでありました。私自身、反省させられる点も多々あり、ご無礼な表現をお許しいただきたいという思いも込めて、お坊さんから届いたメールを紹介する。私の非礼を指摘された上で、宗教者としてのご自身をも振り返る、丁寧なお手紙――。

二月三日号の編集長の直言「幼稚園の経営に熱中するのもいいけど」、これはバカにした言い方ではないでしょうか? まして、仏教系の幼稚園が良かれと思って入園させている保護者に対して、幼稚園経営に熱中せずに、ほどほどにやれと、手抜きをせよとでも言いたいのでしょうか?

私も幼稚園の経営者ですが、仏教がなぜ幼稚園を経営しているのかという本質を理解していないようである。仏教系の幼稚園のはじまりは、お寺で行っていた寺子屋や日曜学校からである。そこで、幼稚園では、日々の礼拝や仏さまの教えを通して、感謝するこころなどを伝える人間教育を行っている。そこに心を注いで何が問題でしょうか? 子どもたちのために、一生懸命に教育を行うこと。悪いことではないでしょう。当寺でも、三年ほど前から地域の小学生や中学生を集めて寺子屋を復活させた。その目的は、地域で子どもを育てる求心力が低下している中、異年齢の子ども集団も無くなってきている現在において、地域に根ざしたお寺として何かできないかと考えた時に、寺子屋というものを作って、日曜日や土曜日に地域の異年齢の子どもたちを集団で育てる機会を与えるべきだと思い立ち上げたものです。運営スタッフは大学生が主体となり、私も含めたお寺の職員で月一回の寺子屋を開催しています。

二月二十四日号の「直言」について。

ちなみにお通夜のご法話というのは、ルールがあります。面白おかしく話すことではないし、仏さまの教えの、お取次ぎをさせて頂いているということが大前提。だから最後の締めは「お浄土のお話」となるのはルールから言って、あたり前である。

ここで言う法話について述べるなら、有難いか有難くないかという議論は別問題である。感話と法話は別次元のものだから、もしかすると一般の方には理解できないのかもしれない。ともすればこの議論自体がすでに時代遅れなのかもしれない。

編集長が言うように、お寺に毒づきたいのも理解できるが、逆はどうだろう? 葬式仏教にしてしまったのは、そもそも一般の方ではないだろうか?

毎月、ご自宅にお参りにいく月忌参り。「不在でもお経だけあげといて」だとか、家にいても一緒に仏壇の前に座ろうともしない方がいる。お盆参りだけ来てくれればいいからだとか、葬儀が終わったらもういいですからとか、教えを伝える隙もない。

お寺では、毎月の法話会や行事がたくさんある。お通夜で伝えたい法話は、ほんの一握りのエッセンスなのかもしれない。それを一言で、「うれしくないオマケ」とか「通夜の場で意味不明の説教をモゴモゴやってる葬式坊主に腹が立つ」などと言って欲しくない。ほとんどの法話がそうだと言ってましたが、旭川にある寺院全てのお説教を聞いたわけでもないでしょう?

親鸞聖人は、「聴聞(ちょうもん)」という聴く力、聞く力を重視しました。他力の修業とは、聴聞であると。人の話を聞けないものは、人に話すことはできない。話を聞けないのは、自分の考えが頭の中を支配しているからだと。

一生懸命にやっている僧侶はいっぱいいますよ。僧侶がすべて同じだと思わないで欲しいです。そこで…

日本の社会を崩壊させたのは、我々お寺なのでしょうか? 教育の現場から宗教教育を取り去ったアメリカがある。核家族化の増加によって、仏壇のなくなった家がある。家庭崩壊とは、家長制度の中で厳格に維持されてきた日本文化が崩壊したからだと思う。

その一つひとつの崩壊が、日本社会を崩壊させてきた。その一つに哲学としての仏教があるなら、まず家庭から変わっていかないといけないだろう。

給食の時に、「うちの子には手を合わせて頂きますを言わせないでください」と言った親がいるそうだ。理由は、給食費を払っているからだとか。手を合わせて「頂きます」ということも言えない親を見て、子どもはどんな親に育つのだろうか?

直言を読んで、我々、仏教に携わる人間も努力していかないといけないと心から思った。

言葉は、常に気を使わないといけない。活字は、なおさらである。時として、人を不快にさせたりすることもある。時として、人に感動を与えたりもする。言いっぱなしは、いけないと思う。

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