過日、市民劇場の例会で狂言を観た。その起源は室町時代というから、六百五十年以上も続く古典芸能である。東京の学生時代、文楽に入れ込んでいる知人のお供で、何度かその舞台は経験しているし、旭川で今の仕事に就いてからも先輩が主催する文楽の会に参加したこともあるのだが、狂言や能の世界は未体験。

まっ、花より絶対に団子派を自認しておりますから、さほど期待して客席に着いたわけではなかった。毎回観劇の後に仲間と向かう焼鳥屋で、いつもは遠慮している手羽先を今夜は二本食べてやるゾ、などと腹を固めたりしているうちに、舞台が始まった。狂言のきまりごとや動きの解説を含めて、約二時間。さほど難解なセリフもなく、日本の喜劇の原点とも言える演技にクスクス笑ったり、大笑いをしたりしているうちに、三つの演目が終わっていた。

ちなみに、演じた茂山千五郎家は江戸初期から京都でつづく狂言師の家で、その昔、「お豆腐狂言」と称されたそうな。いわく、京都ではおかずがない時に「お豆腐にでもしとこか」と言うそうで、能や狂言が一部の特権階級のものだった時代に、結婚式やお祝いの席など、庶民の生活と遠くないところに出向いて狂言を演じ続けたところから、その世界の仲間からは「茂山の狂言はお豆腐や」と悪口を言われた、とのこと。当時の家主の「お豆腐でも結構。それ自体高価でも上等でもないが、味付けによって高級な味にもなれば、庶民の味にもなる。お豆腐のようにどんな所でも喜んでいただける狂言を演じればよい」という言葉が現在まで家訓として受け継がれているのだという。

あぁ、日本人の本性見たり、と感じたのは、いわゆる「カーテンコール」の場面。観客の拍手の中、出演者全員、七人が舞台に並んだ。いつもならば、主演と助演あたりに花束が贈られるのだが、なし。家主がマイクを握り、ひと言。全くのひと言。派手な演出や、リッブサービスに慣れている私たち観客が拍子抜けするほど、簡潔で、節度や羞恥心が適度にあって、そして素朴。私たちの祖先は、このような品性をもって生きて、このような芸能を六百五十年もの間、受け継いできたんだ。「ウエスタンマインドなんか、クソ食らえ」、そう胸の中で叫びつつ、焼鳥屋で計画通り手羽先を二本いただいたのだった。

そうそう、忘れちゃいけない。この話を枕にしたのは、その狂言を観せてくれた旭川市民劇場のことだった。回し者でも、関係者でもないが、このまちで暮らす市民の一人として、少々PRをさせていただく。

旭川市民劇場は一九七一年(昭和四十六年)、市民の手で創立された、営利を目的としない「会員制の演劇鑑賞会」。現代劇から歌舞伎、ミュージカル、今回のような古典芸能など、さまざまなジャンルの演劇公演を年間六回行っている。

会費が月二千二百円だから、一回の観劇料は四千四百円になる勘定。地方都市では中々観ることができない質の高い舞台を、居ながらにして、この値段で、である。仕事や都合に合わせて観劇できるように、毎回、昼公演を含み三ステージの公演。俳優、作家、演出家を招いての講演会や俳優さんたちとの交流会に参加できるという特典のほか、託児もある。

活字離れに苦しむ我が業界と同様、こうした観劇の市民運動も厳しい時代を迎えている。演劇鑑賞人口の減少に加え、会員の高齢化が進み、会員減少に歯止めがかからないという。

夫婦で芝居を観るのもいいだろうし、私のように、二カ月に一度、一緒に芝居を観た後、その話を肴に友人との一杯を楽しむという、いささか不純な動機でもいいのだと思う。こう言っちゃあなんですが、いい舞台を観た後は、私のような浅薄蒙昧の人間にして、何やら高尚な世界に触れたような気分になれる。テレビドラマの演技など底が浅くてさ、などと呟いたりしちゃって、ハハハ。旭川市民劇場に関するお問い合わせは、三ノ八緑橋ビル一号館二階の事務所(TEL23―1655)まで。

ちなみに、次の例会は七月二十九・三十日。出し物は、青年劇場「博士の愛した数式」(小川洋子原作、福山啓子脚本・演出)。映画にもなった名作だが、生の舞台はひと味違う、と思う。まだ観てないけど。

枕のつもりで書き始めたのだが、つい…。報道では、都議選の前に衆院解散の可能性があるやに煽るマスコミがあるが、そんなこと絶対にあり得ない。自民党の中でさえ完全に求心力を失っている総理大臣が、公明党の反対を押し切る力などあるものか。そんなヤケクソ解散なんかに踏み切り、公明票を浮動票にするような事態を招いたら、政権どころか、党の存続まで危ういことになってしまうだろうが。中央の報道者たち、木を見て森を見ず状態になっちゃってるんじゃないの。本質をしっかり伝えろよ――。

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