今春、四月十二日の苗床づくりから始まった「仲間との米作り体験」は、種まき、田起し、田植え、雑草取り、そして稲刈り・はさ掛けなどの作業を経て、今月十二日、一日がかりの脱穀・籾すりで、ついに玄米に仕上がった。一反四畝の水田で収穫できたのは、農協に出荷できた六俵(三百六十キロ)と半端五十キロ、そして基準の網目からこぼれた三俵半。半年間、友人知人、地域の農家の方々らおよそ十五人が関わってくれた成果は、十一俵弱のお米と屑米六十キロだった。

「可能な限り手作業で」を目標に、苗を手で植え、鎌で稲を刈って、機械乾燥ではなく、水田にはさ木を立てて、お日様の力を借りた。怠惰で軟弱な日々の生活の祟りで、腰が痛くなったり、息が切れたりして、機械に頼ればこんな辛い目に遭わなくても…、などとヒヨル気持ちが頭をもたげることも度々。節目ごとの、趣味の範疇の体験ではあったが、アジアの西の端の小さな島国の民が、およそ三千五百年前から食べ続けて来た主食について、縷々思うことがあった。

 その一つは、私たちは国レベルの「地産地消」を意識しなければならない、ということ。私たちはもっと米を食うべきだ、端的に言えばそれだ。米を作らない農家にお金を払う、そんな労働と対価の概念を否定するような、馬鹿げた農業振興策が未来永劫続けられるとは到底思えない。国民の多くが飢餓に瀕している、独裁国家からのミサイル攻撃に対する安全保障を大げさに云々する以前に、食糧自給率が四割を切るこの国の食い物の安全保障が問題ではないのか…。

機械で乾燥した玄米と、稲束を担いでお日様の力を借りて乾かした私たちの玄米と見比べながら、そんなことを思った。ちなみに、はさ木に二週間かけて天日乾燥した米粒は、つややか、ピカピカ。明らかに機械乾燥のお米とは違うお姿だった。そうかぁ、天照大神も、稲藁で作られるしめ縄も、出来秋を祝う秋祭りも、営々とコメを作り続けて来た日本人の魂に結びつく所作の表れなんだなぁ、と不思議に素直に納得できる半年間の農業体験だった。えっ、肝心の米の味ですか? それは、もう、お日様の力と汗と涙がほどよくミックスしていまして、格別でありました、ハイ。長めの枕はここまでにして。

 市役所OBの話である。犯人探しをされても意に介さないほどの、かなりのОBだから、念のため。

 ——市役所に入ってまだ七、八年の、ペイペイの時代。当時の市長は五十嵐広三さんだった。私は農政部で勤務地は支所。ある会合で、多分、生意気な発言をしたんだと思う。それが市長の耳に入ったんだな。しばらくして、何かの会議の席で、上司から促されて発言したら、市長が「○○君というのは、君か」と声をかけられた。叱られるのかなと思ったけど、その場はそれだけ。二、三日後、夜遅くに自宅に電話がかかって来て、女房が「あなた、市長から電話よ」って慌ててね。電話に出たら、具体的にどんな話だったか忘れたが、とにかく農政に関することだった。私なりに、私の立場で話せることを答えた。翌日、役所に行ったら、上司の課長が「お前、市長に何か話しただろう」って怒るんだ。「オレを差し置いて、直接市長と話すとはけしからん」ってね。私は「こちらからじゃなくて、市長の方から電話が来て、質問されたら答えるしかないじゃないですか」って反論するけど、課長の怒りは収まらないし、大変さ。自宅に電話して来たり、直接市長に呼び出されたり、そんなことが、一度や二度じゃなくて、しょっちゅうあった。

 もう一つ。これは本庁に戻ってからのことだけど、ある時、市長が私の所属する部署にやって来て、部長を怒鳴りつけた。「お前、そんなことでよく部長だなんて威張っていられるな」って、ものすごい剣幕さ。課長も係長も、みんなびびっちゃってさ。さっきの自宅に電話を掛けてくるという話もそうだけど、あれは五十嵐さんが意識してやったパフォーマンスだったんだと思う。ややもすれば事なかれ主義に陥りやすい、硬直化した役人集団を刺激して、カツを入れる、つまり組織を活性化するための仕掛けさ。自分たちは誰のために、何を目的に、どんな仕事をしなければならないか——そうしたトップの理念や姿勢に、部下は敏感に反応する。それは役人でも民間企業でも同じさ。今振り返れば、あの頃、幹部も、ペイペイの職員も、一様に緊張感があったと思う。良い意味で、ピリピリしていた。

 いま、役所の職員と仕事上で関わることが時折あるんだが、緊張感のなさに目を覆うことが度々だ。どうしようもなく組織が緩んでいる。係長も、課長も、補佐も、次長も、部長も…、誰も「責任はオレが取るから、思い切ってやってみろ」なんて言わない。いや、そういう場面さえ作らない、作れない。私が愚痴っても仕方ないんだけどさぁ。

ご意見・ご感想お待ちしております。