友人たちと半年間の「米づくり体験」で手にした成果、玄米を手に街角の“精米ハウス”に行く。コインを投入すると、上白、白米、八分づき、など好みのレベルの精米が自動的にできる。多分、札幌や東京などの大都市では、見ることができない器械だろう。米どころの地方都市に暮らしている自分を実感できる時間でもある。

 精米されて、ピカピカ輝くお米が出てくる口の周りに、僕の前にここに来て器械を使った人が誤ってこぼしたのだろう、幾十、幾百粒のお米が散らばっている。稲刈りやはさ掛け作業の後にした落穂拾いを思い出しつつ、「もったいないなぁ」と思う。だが、私も、そのお米を拾い集めない。他人様がこぼした米だから、僕が損をするわけではないから、どんな米か分からないから、見られたらみっともないから…。理由はいくらでも付けられるけれど、要は、本気で「もったいない」とは感じていないんだ。もしかすると、他人のこぼした米を拾うほど、自分は貧しくはない、と思っているのかもしれない。だが、だが、「もったいない」と感じる思考回路と、「貧しい・豊か」の間には何の脈絡もないことを私は頭では理解しているし、酒の席などで、その手の論をしばしばぶっているではないか…。この次、精米ハウスに向かう時は、ちょっと綺麗目の箒と洗った塵取りを持参することにしよう。枕はここまで。

 ベトナム戦争が、サイゴン陥落、南ベトナム政府崩壊によって終結したのは一九七五年(昭和五十年)四月のこと。当時、私は東京にいた。思えば、長男が生まれたのはその夏だった。「団塊」と呼ばれる世代の最後方にある私の年代にとって、ベトナム戦争は、遠い国の出来事でありながら、その後に続く世代よりもかなり身近に感じる戦争だった。その後、アメリカで製作されたベトナム・カンボジア戦をテーマにした映画、「地獄の黙示録」(一九七九年)、「キリングフィールド」(一九八四年)、「プラトーン」(一九八六年)、「グッドモーニング、ベトナム」(一九八七年)などなどを飽きることなく観続けたのは、ベトナム戦争と同時代を生きた自分の人生を確認するためだった気がする。そのベトナム戦争終結の三年前、沖縄の米国占領が終わり、日本に返還された。

 過日、市民有志が企画した上映会で「花はどこへいった」という映画を観た。坂田雅子監督の作品。米国人のフォトジャーナリストの夫の突然の死の原因は、米国がベトナム戦で散布した枯葉剤ではないかと友人に示唆された坂田監督が、ベトナムに足を運んで撮影した画像を中心にしたドキュメンタリーだった。夫は、米軍兵士として送られたベトナムの戦場で大量の枯葉剤を浴びていた。

 米軍は、敵が身を隠すための森を枯らす目的で上空から枯葉剤を撒布した。枯葉剤の主成分はダイオキシンである。それは、森を枯らしただけでなく、ヒトにも大きな影響を与えた。いや、今も与え続けている。ヒトの中には、ベトナムの兵士や農民や女性子どもだけでなく、当時、そこにいた米軍の兵士やジャーナリストも含まれる。坂田監督の夫はその一人だった。結婚するとき、夫は「子どもは作れない」と言ったという。理由は、障害を持った子どもが生まれる可能性が高いから。

 戦争が終わって三十年以上も経つというのに、枯葉剤を浴びたり、浴びた森に入ったりしたヒトの子どもや孫に、奇形児が生まれ続けている。スクリーンから目をそむけたくなる、異常なヒトと介護する家族の姿を坂田監督は誠意を込めて、丁寧に映し出す。その災厄を「恨んでも仕方ない。戦争だったんだから」と受け入れるベトナムの人々に、米国は一切の援助も、被害の調査さえ行なわない。

 アメリカという国は、六十四年前、戦争終結を早めるという口実で、広島と長崎に原爆を落とした。イラク戦争で劣化ウラン弾を実戦で初めて使った。彼の国では白血病やガン、出生異常が多発している。

 素朴に思う。こんな国と「強固な同盟」を結んでいていいのか、と。沖縄・普天間飛行場の移設問題が、日米関係を悪化させる云々、という報道に接する度に、私たち市井の民にとって、米国との同盟関係にヒビが入ることで、どのような影響が、どのように具体的にあるのか、と。米軍基地が沖縄に在り続ける意味を、国民の前で、もう一度問い直してもらいたい。新政権は、過去の政権がした約束は反故にできる。そうでなければ、政権交代の意味などないではないか。

ご意見・ご感想お待ちしております。