日曜日は、仕事だ。会社で原稿を読んだり、書いたりしながら、時計が気になる。午後八時には、家でテレビの前に陣取りたい。三年間にわたって放映する予定だというNHKのスペシャルドラマ「坂の上の雲」の第一部が十一月の最終日曜日から始まった。原作の司馬遼太郎の同名小説は二度、読んだ。その後も、時折、文庫を引っ張り出しては拾い読みしている。

 いわずと知れた、伊予松山に生まれた三人の男、秋山好古、真之兄弟と俳人の正岡子規を主人公に、明治という近代日本の勃興期を描いた長編歴史小説。一方で、日露戦争の時代を生きた祖父母をもち、太平洋戦争を体験した父母に育てられた私のような世代にとっては、ちょっと前の日本の国の姿と民の生き様を具体的な像として目の奥のスクリーンに結ばせてくれる作品でもある。

 その第一回の放送「少年の国」の中で、強く印象に残った場面があった。セリフは多少異なるが、引用してみる。

 日露戦争でロシアが誇るコサック騎兵隊と戦い「日本騎兵の父」と呼ばれた秋山好古と、連合艦隊司令官・東郷平八郎の参謀としてバルチック艦隊を撃破した弟・真之の父親は旧藩の下級武士・徒士(かち)で、維新後は県の小役人として勤めた。秋山家は、五男一女の子どもを抱え、相当な貧乏。今で言えば貧困層の部類に属するかも知れない。経済的な理由から学校に通えない十三歳の好古が、「大阪にただで通える学校ができた」という話を聞き、父親に真偽を問う。県の役所に勤めている父が、どうしてその情報を自分に伝えないのかと。父親は答える。「自分が役所に勤めているから、息子のお前には教えられないぞなもし」。官吏として得た情報は公のものだ。家族に特別に教える訳にはいかない。立場を利用した抜け駆けは許されない。ズルは、いけないのだ、と。

 明治維新から太平洋戦争、そして戦後の復興と、この国を支えてきた役人たちの矜持は、そこにあったのだと思う。「私」と「公」を隔てる明確な境界を意識する精神。それは今も、国も地方も、公務員かと呼ばれる職業人にDNAとして伝達されている、と思いたい。

 で、先日、市役所の某部署から封筒が届いた。とある会議を欠席したため、その議事内容を送ってくれたのだ。その封筒の、私の住所と名前記されたされた表面(おもてめん)の四分の一のスペースを某冠婚葬祭場の「広告」が占めている。差出人の旭川市役所の文字の方が太く大きいから、広告の主からの封書と勘違いすることはないのだけれど、なんとも言えない違和感がある。市民広報の裏表紙に広告が載るのとは、いささか次元が異なる“いずさ”(北海道の方言で、例えば靴の中に小石が入って歩きずらいとか、目の出来物が症状として現れる前のゴロゴロする感じの意味)。行政もコスト意識を持つべし、という世の中の流れに従わざるを得ないということなのだろうが、良い意味の公の気高さ、プライド、自尊の精神を挫いてしまいそうな封筒の表情に見える。

 同じく「坂の上の雲」を心待ちにしていた友人がいみじくも言う。「あのドラマ、とんでもない制作費をかけているよね。だけど、NHKだから出来ることってある。コマーシャル経済の民放では絶対に手を出せない、上質のドキュメンタリーもそうだけど、NHKだから出来るんだよなぁ。もちろん、ダメ番組も山ほどあるけどさ」と。流行語にもなった新政権の「仕分け」のように、行政のムダを公開の場でバッサリ切り捨てるのは、細かな手法云々は別にして、納税者・国民にとって良いことだ。だが、効率やコスト、ナンボ儲かるみたいな意識だけでで政(まつりごと)を考えたり、動かしてもらっては、いかがなものかと思う。学校も、図書館も、博物館も、公園も…、いわゆる経済の範疇では計れないではないか。

 市の財政が極めて厳しいのは周知のことだ。国と地方の借金が合わせて千兆円に達する現状では、今後、市の歳入が画期的に増えるなんてことは考えられないし、この経済状況では税収が減るのは目に見えているのも事実だ。だから、市として独自の収入源を確保しようという思いは理解できる。だが、だが、公的な封筒のスペースを切り売りして、この大きさだとン万円で、こちらは少しお安くなります、みたいな、セコイ商売に手を染めるのは、このまち一番の高給取りである市職員の魂を売ってしまうような気がするのだが、いかがか。

 民間企業が自社の封筒に他企業の広告を印刷するなんてあり得ないわけだ。市の封筒には、社長である西川市長が抱く「私のまちづくりの方向は、この言葉に集約される」みたいなフレーズを大書きしてはどうか。市民の間には、「市長がどんなまちづくりを目指しているか、見えない」という声も少なくないのだから、さ――。

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