一月五日付の小欄に、友人の会社と合同で師走の二十九日に餅つきをしたと書いた。先日、友人と酒を飲んだ折、こんな話を聞かされた。「二十九日は、く・苦に通ずるから、餅つきは避けたほうが良い、との言い伝えは知ってはいたが…って書いていたけど、地方によっては、二九はふく・福に通ずる、福餅ということで、わざわざその日を選んで餅つきをするところもあるんだよ」。なるほど、世の中、いろいろですなぁ。友人の会社と一緒にやる賑やかな餅つきの味をしめたので、今年の年末はバージョンアップしてやろうぜ、なんて話し合っている。堂々と二十九日に「福餅つき大会」なんて銘打ってもいいかなと。枕は、ここまで。

 旭川ゆかりの詩人、小熊秀雄の名を冠した現代詩の賞の運営に少々関わっている。小樽生まれの小熊は、当時日本が統治していた樺太(現サハリン)での幼少年期に様々な職を経験し、二十歳代の七年間ほどを旭川で過ごした。弊社とはつながりはないが、当時の「旭川新聞」で記者として健筆を奮い、その後、上京して詩や評論、絵、童話など、多彩な才能を開花させながら、一九四〇年(昭和十五年)に三十九歳で夭逝している。

 一九三一年(昭和六年)の満州事変、一九三七年(昭和十二年)から始まった支那事変(日中戦争と呼んだ方がいいかな)、そして一九四一年(昭和十六年)十二月、真珠湾攻撃で始まった大東亜戦争(これも太平洋戦争と呼ぶべきかな)へと続く、軍国・戦争・言論統制の時代の真っ只中にあって、権力の検閲の目をかいくぐりながら、独自の風刺と批判精神で多くの作品を残した、稀有の作家である。いま、世相や社会のあり様がそうさせるものなのか、小熊の作品やその評論、画集などが相次いで出版され、静かなブームと言ってもよい状況だ。

 出生地の小樽ではなく、作家として活動し、自らが命名した「池袋モンパルナス」の地でもなく、旭川のまちと人が一九六八年(昭和四十三年)、小熊秀雄賞を創設し得た背景には、このまちが持っている文化の底力のようなものがあるのだと思う。しかも、営々と四十数年間、全国で詩作に励む人たちの「光」であり続けた。改めて、“現代詩の芥川賞”とも言えるこの賞に関わり、支えてきた先輩たちや企業、そして旭川市はエライと心底思う。

 今月末に、第四十三回小熊秀雄賞の応募が締め切られ、第一次選考が始まる。現在の応募点数は、五十二作。五月に予定している贈呈式で、どこの、どんな方が正賞の「詩人の椅子」を手にするのか、どんな詩集が選ばれるのか、今から楽しみだ。

 さて、現在、賞を運営する市民実行委員会が、北海道文化財団の支援を受けて、小熊の作品のブックレットを編集中だ。童話を中心に、詩、彼の生涯を辿る年譜仕立ての小熊評、ロシア語と韓国語訳の詩なども織り交ぜて、全十冊ほどの小冊子を一まとめにした形で出版しようというプロジェクト。小熊の作品に、小学生や中学、高校生も触れるきっかけになれば万々歳、というのがコンセプトである。造形作家で、賞の選考委員を務めていただいている藤井忠行さんにデザインやら壮丁やらも含めてお願いし、挿絵は、地元で活躍している画家の高橋三加子さん、絵本作家の堀川真さんのお二人に描いてもらう。収録する作品の選定には、子ども文庫を開いているお母さんたちにも加わっていただいた。

 構想がスタートしてから三年越しの作業も、いよいよ最終盤に差し掛かっている。私などは、横から余計なチャチャを入れる程度のお手伝いしかできないのだが、地元の方たちが組んでモノを作り上げることの醍醐味の片鱗を味わっている。地元に蒔かれた種が、芽を出して、時間をかけて育っていって、いずれ葉を伸ばしたり、株分けしたり、花粉が飛んだり、文化と言えば大層だけど、豊かな、広がりがある精神風土が培われる課程って、こんな風景なのかも知れない、そんな気がしている。

 名付けて「飛ぶ橇文庫」。小熊の代表的な長編詩の題を拝借した。多分、いや間違いなく、三月末には完成し、市内の小中学校、高校の学校図書館や地域文庫に寄贈することができるだろうし、市内の書店にも並ぶと思う。値段はまだ未定。スタッフの中で、議論の最中である。むしろ、高い方が売れる、いやいや買いやすい値段にすべきだ、こんな話のやり取りも、地方からの情報発信には欠かせないツールの一つなんだと、その議論を楽しんでいるところだ。

ご意見・ご感想お待ちしております。