ある団体の研修会で、札幌芸術の森に行ってきた。その名前はちょくちょく耳にしているのだが、恥ずかしながら初めて、である。いゃあ、驚きました。目が眩みそうになりました。

 人口三十五万人の旭川と、百九十万人に達しようという札幌の、都市の規模を見せ付けられると同時に、市政のトップに明確な「理想のまち」の像を持つ者を戴くまちと、そうでないまちの、二十年後の格差のようなものを実感できた気がする。

 四十ヘクタールの丘陵地の森に、野外美術館や屋内美術館、工芸館、数々の工房やアトリエ、そして札幌市立大学のキャンパスなどが点在する。ちょうど紅葉が見ごろの時季で、その日が雨だったことも、強い印象を与えられる好条件だったのかもしれない。

 それにしても、傘を手にボランティアのガイドさんの案内で散策路をたどりながら、「あっちの道に進んだら、もしかすると、ガイドマップに載っていない秘密の作品に出会えるのではないか…」などと、年甲斐もなく、不思議な感覚にさせられる自分がいた。作品の設置場所やそこまでのルート、そして眺望、観る者の視線のベクトル…、設計者が面白がって作った、その複層的な意図までが感じ取れるような気がした。

 案内していただいた札幌市立大学の吉田惠介教授によると、オープンしたのは一九八六年(昭和六十一年)。板垣武四市長の時代だった。三期に渡る整備を経て、一九九九年に完成したとのこと。板垣市長は、一九七一年から五期二十年、札幌市長を務めている。七二年(昭和四十七年)に開かれた冬季オリンピックを機に都市としての基盤整備を推し進め、それが一段落する八〇年代から、「これからは心の豊かさが大事だ」と文化芸術の分野に目を向けたまちづくりに着手したのだそうだ。

 全国にその名を知られるモエレ沼公園も、この市長時代に計画され、その後の市政に引き継がれながら、〇五年に完成している。十七年間に二百五十億円が投じられたという。その出発は、市街地の周囲を緑化しようという「緑化環状グリーンベルト構想」だった。芸術の森にしても、モエレ沼公園にしても、大きな財政負担を強いられることから、反対の声も少なからずあったと聞く。しかし、「札幌を“こんなまち”にする」という、トップの明確な意志が十年、二十年と持続し、貫かれ、実を結んだ。

 土木建設関連の友人は、私と一緒に芸術の森の野外美術館の道を歩きながら、丁寧な石段の積み方や樹木を囲う木枠のつくり、遊び心に満ちた散策路の設計などを眺めつつ、「札幌の業者は幸せだ。この公園の仕事をすることで、どれほど勉強し、ノウハウを蓄えられることだろう」とうなった。貧乏人の私は、この施設を維持するために、一体どれほどの予算がかけられているのだろうと心配になった。そして、それを許す市民と為政者がいる、こんなまちに住んでみたいなと、少し思った。

 さて、札幌芸術の森やモエレ沼公園が構想され、着工されたその時代、旭川はどうだったか。市長は、昨日、名誉市民として、市文化会館で市民葬が執り行われた坂東徹氏だった。時あたかも、後に「バブル経済」と言われる、お金がジャブジャブあふれていた時代である。旭川市も、次々に新しい施設を建設した。代表的なのは、八八年(昭和六十三年)のときわ市民ホール、九三年(平成五年)の大雪クリスタルホール、そして九四年には、中央図書館。

 すべて、箱物である。つまり、「市民要望」に応えるポーズを取りながら、その実、現職市長の選挙を支える土木建設業界のための仕事を次から次へと作っていった。こう言っちゃうと気分を害される方もいるだろうが、どれも利用する側にとって、どこにでもある、造形的にも面白くもなんともない、単なる建物。仮に百年後、歴史的建造物として遺そうなんて、誰も言わないだろう、そんな箱物。

 その間、菅原功一市政の時代になってから予算が重点的に投じられ、一躍脚光を浴びることになる旭山動物園は、冬の時代の真っ只中だった。買物公園、またしかり。坂東市長の「政敵」、五十嵐広三市長が手をかけた施設や事業は無視、予算を付けないのだ、という見方は間違っていなかったろう。札幌への一極集中の遠因には、もしかすると、こうしたまちのトップの資質の差も手を貸しているのではないか。紅葉が雨に濡れる野外美術館で、旭川出身の彫刻家、砂沢ビッキの「四つの風」の、一本が倒れたまま展示されている姿を痛々しく眺めながら、そんなことを思った。

 十一月七日の旭川市長選挙には三人の方が立候補を予定している。さて、三人の中に、札幌芸術の森のような、遠大な都市構想、地域プランを志向する方はいるのかどうか、しっかり、じっくり見極めることにしよう。

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