福島県大熊町から旭川に避難している女性(51)に話を聞く機会があった。大熊町には、東京電力福島第一原発の一号機から四号機がある。

 二〇一一年三月十一日、地震が襲ったその時は、自宅に近い勤務先のクリニックで仕事をしていた。看護師として約二十年のキャリアがある。

 「それまで経験したことがない、立っていられないほどの強い揺れでした」

 自宅は海から離れているため津波の被害は受けなかった。翌日の朝、公民館に集まるよう役場から指示があった。事前に何の情報もなかったから、一時的な避難ですぐに帰宅できると思い、着の身着のまま公民館に行った。県外からのバスが次から次へと住民を乗せて走り去った。バスが足りなくなり、夫とともに自衛隊の幌付きトラックに乗せられた。夫の父親と母親は、介護の車で町外に出た。

 自衛隊のトラックは、公民館や学校など避難所になっているところを回って、普通なら一時間ほどの距離を五時間以上かけて、三春町にある、まだ稼動していない工場にたどり着いた。床はコンクリートで、与えられた毛布にくるまってもひどく寒かった。

 長男は全国に支社や営業所があるIT関連の会社に勤めていて、当時は札幌にいた。その長男に勧められて三月三十日、札幌にやって来た。その後、長男が旭川に転勤になったので、一緒に旭川に来て暮らしている。

 「主人(59)は、溶接の仕事を自営でしていました。原発関連の下請けです。旭川で溶接の仕事を見つけてパートのような形で働いていましたが、今は腰を痛めて休んでいます」

 大熊町は、作業員以外の住民の立ち入りや一時帰宅が禁止されている「帰宅困難区域」が九六%を占める。残る四%も、日中に限り町からの許可を得ることを条件に立ち入りや一時帰宅できる「居住制限区域」「避難指示準備解除区域」だ。

 女性の自宅は、土地は借地だったが、家のローンはまだかなりの額が残っている。今は、支払いは猶予されてはいるが、今後、どうなるのか分からない。

(工藤 稔)

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