第五十七回小熊秀雄賞の贈呈式が十一日、アートホテル旭川(市内七ノ六)で行われた。式については、記事を参照されたい。
第四十回で廃止すると発表された同賞の運営を市民実行委員会が引き継いだのは、二〇〇八年度から。今回が十七回目になる。早いものだ。歳を取るはずだと、心底思う。
全国の文学賞の中で、純粋に市民の手で運営されているのは、おそらく同賞だけだろう。市からの補助はあるが、大半は会員の会費を中心とした自主財源である。贈呈式の会場で、運営スタッフの準備を手伝いながら、目頭が熱くなった。日ごろ、手弁当で、ほぼボランティア。見返りはない。そんな彼らが、自分たちが設営する贈呈式の参加費一人五百円を負担している。式の後の「受賞者を囲む会」の会費と合わせると三千円の出費である。エライものだと思う。
五十七回の歴史の中で、韓国にルーツをもつ詩人の受賞は初めてだ。いま選考委員を務めている佐川亜紀さんが受賞した第二十五回(一九九二年)に金時鐘さんが特別賞を受賞しているが正賞ではない。第五十五回の受賞詩人・津川エリコさんは、アイルランド在住だった。旭川ゆかりの詩人の名を冠する文学賞が、国境を越えて国際的な価値を獲得し始めていると感じる。
贈呈式の姜さんのスピーチの一部を紹介しよう。
――私は日本語が話せなくて困ったという経験はまったくないんです。だけど一部の人たちから心無いことを言われたことはあります。不思議なもので、差別的な言葉というのは、大人になってからも言われることがあるんですが、大人になって言われたことよりも、小学校低学年、中学年くらいのときに言われたことのほうがはっきり、鮮明に覚えています。それは当時は差別的行動とか、歴史とかを分かっていなかったので、ショックが大きかったのかなぁと、いまになって思います。韓国人は卑しいとか、そういった直接的なことを言われたこともあるんですが、私が嫌だったのは名前で笑われること。カンホジュというのはペンネームで、本名のカンミンジュで小学校に通っていたんですが、もちろんみんなではないんですが、私の名前をからかう子たちがいる。あるいは笑う人たちがいる。それが非常に嫌でしたね。
もう一つ、母の日本語の発音。どうしても韓国人らしい発音なんですね。タ行が言えない、ツがチュとかになるんですね。それを子どもたちが笑う。幼いころはそれが非常に嫌でした。
――十代の頃って、悩みってありますよね。親との関係性とか、将来のこととか、恋愛とか…。私ももちろん悩みました。でも、私のティーンエイジャーのときの悩みの最大の比重を占めていたのは、私の所属はどこなんだろうか、アイデンティティーの問題、居場所の問題でした。私の周りには外国人の友人はいなかった、日本人の友だち、日本人の先生しかいなかったので、そうした悩みを打ち明けることは全くできなかった。あまり理解してもらえないんじゃないかと思って、口を閉ざしてしまう。どんどん人に本音を話さないこどもになっていき、非常に荒れていました、中学生、高校生のときは。
――高校生のとき、また母の仕事の都合でドイツのベルリンに一年間、住むことになります。そこで私は非常に大きな出会いをします。ドイツは移民がすごく多いんですが、移民の子どもたちをいきなり現地の学校に入れると、ドイツ語についていけないから、移民の子どもたちだけを集めて、公立の学校で一年とか、一年半とか、集中的に学ばせてから、転入させていく。私は、その移民の子たちだけの学校に入りました。私と同じ教室で学んでいたのは、シリアから来た子、セネガル、そしてチェチェンから来た子たちでした。彼らと話す中で、大きな衝撃を受けました。彼らは本当に苦しい、シビアな状況で命からがら、ラッキーで逃げてきた。ドイツの養護施設みたいなところで暮らしているんですけど、家族が生きているのか、死んでいるのかも分からない。私と同い年くらいの、十五歳、十六歳の子どもたちがそういう状況だった。しかも、特にイスラム圏から来た子たちですね、ドイツでもイスラムに対する排斥を主張する人たちがいて、ひどい差別に遭っているのを何回か見たことがあって、彼らは非常にシビアな状況で生きている。私は本当になんて自分のことしか考えていなかったのかと、当時、思いました。
彼らはそんな環境で生きていながら、すごく率直で正直に話すんですね。だから、他者に対しては心を閉ざしていた私も、彼らに対しては正直に言わないといけないと強く思いました。そうでなければ、彼らが切実に生きてるなかで、すごく失礼だなというふうなことを思って、そこから他者に対して段々と正直に話せるように、他者を信頼したり、そういうことができるようになりました。
――小熊の作品を読んでいて思うのは、詩とか芸術というものが民衆、社会、あるいは民衆の生そのものと切り離すことはできない、そういった確信が小熊の作品にはあったのではないか。私が最近考えているのは、パレスチナ、ガザ地区での虐殺です。でも私の詩は、ガザの人たちにとっては何にも必要とされていないし、何の力にもならない。それを分かっていながらも、私は詩を必要として、詩を書いている。そうした隔たりを分かった上で書くことは非常に苦しい、と感じています。そもそも詩を書くことは非常に苦しい。私は生きやすくなるかなと思って詩を書いていました。だけど実際は逆で、書けば書くほど苦しくなっていきます。私は二十三歳くらいで自分のアイデンティティーについて悩むことはなくなっていたんですが、詩を書けば書くほど、そのアイデンティティーに自分が切り込んでいくため、もっと揺るがされて苦しくなっていくんですね。人々が殺されたり、貧困で死んでいく、こういった世の中で私は悠々自適に詩を書いている。こういったことも嫌悪したくなる、という気持ちもあります。それでも私は書くことをやめられない、いやだいやだと思いながらも書いて、書き続けています。
最後になりますが、わたしは小熊秀雄のようにずっと生活者である民衆の側に立って、ウソ偽りのない言葉で詩を書き続けたいと思っています。
(工藤 稔)
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