「小熊秀雄を『しゃべり捲くれ』講座」が二十二日夜、ときわ市民ホールで開かれた。

 旭川ゆかりの詩人、小熊秀雄(一九〇一~一九四〇年)の名を冠した公募賞を運営する市民実行委員会(橋爪弘敬会長)の主催。小熊の作品や人となり、その生き方を多くの市民に知ってもらおうと、市井の研究者や小熊ファンを講師に迎え、二カ月に一回のペースで開いている。

 二十三回目の講師は、元全国紙記者で、実行委員会の運営委員を務める吉木俊司さん(62)。「小熊秀雄が聴いたジャズ『夢去りぬ』~レオ・ハッターとは何者か?」と題して話した=写真

 小熊の全詩作品の中で唯一「ジャズ」という言葉が出てくる詩「泥酔歌」は、一九四〇年(昭和十五年)五月、雑誌「現代文学」に発表されている。その三年前の一九三七年(昭和十二年)、盧溝橋事件を機に日中戦争が始まり、翌年十二月八日には真珠湾攻撃で、日本がアジア太平洋戦争に突入するという時代である。

 吉木さんは、「泥酔歌」に出てくるジャズ「夢去りぬ」の五つのバージョンのCDを用意して聴かせた。最初は、一九三九年(昭和十四年)四月に、「洋盤」としてコロンビアレコードから発売された。作曲者のレオ・ハッターは、服部良一の変名だった。そのほか、戦前から戦中にかけて発売された「夢去りぬ」のレコードは、当局の「発禁」処分を逃れるために、歌詞や曲名を変えたり、楽団名をフランス語にしたり、いずれも“変装”が施されている。

 「言論統制の下で、暗い詩、めめしい歌詞、軟弱な歌詞は戦意高揚に反するとして排除された。出征兵士の妻が駅で夫を見送る『夜のプラットホーム』という曲は、『さよなら さよなら 君いつ帰る』という歌詞があるから、発禁処分になった。兵士は死んで帰って来るのが名誉とされた時代、『生きて帰って来て』と願うことは罪だった」と吉木さんは解説した。

 集まった三十人は、小熊が「しゃべり捲くれ」と民衆を鼓舞しなければならなかった時代の感触を当時の音楽で体感しながら、特別秘密保護法が施行されようとしている現在の日本の行く末に思いを馳せた。