市民団体「あさひかわ西地域・九条の会」(小林和彦代表)がこのほど、戦争体験者の証言を聞き書きした『平和への伝言』の第十七集を刊行した。同会では二〇〇六年から、この取り組みを始めており今年十九年目を迎えた。その出版記念の感謝の会が十七日、神楽公民館隣の「木楽輪(きらりん)」(神楽三ノ六)で開かれた。

2006年から
活動を開始し19年

 二〇〇六年春、同九条の会主催の「戦争体験を語り・聞く会」が行われた。多くの市民の発言が相次ぎ、「もっと語りたい」との要望があったことから、同年十一月、第一集を発行。以後、毎年刊行し続けてきた。時には二分冊になることもあった。

 第十七集は五人が証言。そのほか、中国における戦争犯罪者の裁判と中国帰還者連絡会(中帰連)の活動を研究している、上海交通大学人文学院の石田隆至さんへのインタビュー記事を掲載したA四判、百十㌻。 

 この日、聞き書きを担当した伝言集の編集員から、出席した四人に第十七集が感謝の言葉とともに贈られた。

 武田久子さん(97)の証言は「軍国少女の私は聖戦だと思っていた~真実を知ることで目覚めた私~」のタイトルでまとめられた。

 武田さんは国後島泊村で小学校時代を過ごした後、根室、函館の庁立高等女学校へ。

 「戦時中、戦後は本当にひどい時代でした。二度と経験したくありません。生活に必要なものがないのです。なんといっても食べるものがないのが一番つらかったです」「石鹸はないし、着るものもないし、本当、ひどい時代でした。お砂糖なんかも、もちろんない。甘いものは全然なかったです。おはぎは塩味。お味噌もお醤油もありませんでした。仕方ないから、大豆を煮て、大豆の汁にお塩を入れて…。でも、全然お醤油の代わりにはならなかったです」

「私は当時軍国少女で、今やっているのは聖戦だと思っていました。大東亜共栄圏をつくるんだってね。真っ直ぐに受け止めていました。国のために立派に死ねると思っていました。もっと周りの状況を知っていれば、疑う気持ちも湧いてきたんでしょうけれど。そういう意味では教育の問題は大きいですよね」

 「あの頃の教育は『生きる』という教育ではなく、『どう、立派な死に方をするか』という教育でした。今は『自分らしくどう生きるか』ということが、人として大切なことですけど、そうではなくて、『御国のために、天皇陛下のために立派に死ぬ』。そういう考えをたたき込む教育でした」

赤ン坊を海に
甲板で泣く母親

 樺太の敷香(しすか)生まれの山田潤子さん(90)は十歳の時、「ソ連軍が入ってきた」との話を聞き、母親と二人で敷香から樺太の南端・大泊まで貨物列車で逃走。

 「私は父の遺骨と位牌をリュックに入れて救命袋って言うんですか、それを肩にかけて、十歳で病弱な子だからそれで精一杯。母は衣類を何枚も重ねて着たり、夏の暑い時にね」

 山田さんには母親と大泊から、駆逐艦で稚内に引き上げて来る船中で見た、忘れられない二つの光景がある。

 「甲板の上で泣いているお母さんがいたの。三角の綿入れの薄いのに赤ちゃんが動かないように包んだまま、海に投げたんだよね。私、投げるとこは見てないけれど、そのお母さん、海を見ながら泣いていたのね。赤ちゃんが『おぎゃー、おぎゃー』と泣きながら航跡に巻き込まれていくのを私見たの。子どもだから何も意味分からないかったけど、『赤ちゃん可哀想だ』と。自分も子どもの親になり、どんな思いで捨てたのか…と思ってね」

 「十九歳か二十歳くらいの娘さんが、大泊の岸壁を離れる時、さめざめと泣いてね。小さな声で『明日はお発ちか/お名残惜しや』と泣きながら歌っているのね。子どもだから意味は分からなかったけど、そこだけは憶えているの。中学生くらいの時、あのお姉さん、親や家族と別れて悲しいのか、恋人と別れて悲しいのかと、たまに思い出すことがあった。この二つの情景がずっとこの歳まで忘れられないんですよ。このことが私の目から消えるまで、私の心の中では戦争は終わっていないと思います」

少年航空隊を志望するが、
父親は同意せず

 元東川町長の山田孝夫さん(95)は「父の反対で少年航空隊に入れなかった」と回想している。

 「太平洋戦争末期に先生が少年隊に志願する者を募ったんです。男子をみんな呼んで『軍隊に志願しないか。軍需工場へ仕事に行かんか』って聞きました。僕は『陸軍少年航空隊に行きたい』って言ったんです。そしたら、先生が願書くれてね。『親の同意をもらってこい』って。だけど、親父は承諾のハンコを押さないんです。僕は親父を『非国民』だと思ったね。……親父は昔、第七師団にいたので軍隊が理不尽な所だっていうことを分かっていたと思うんです。現実を見てるから。……私は軍隊に憧れていた一〇〇%軍国少年。『金鵄(きんし)勲章貰うんだ』って真剣に思っとった。だから勉強しない。『二十歳になったら戦争に行って死ぬんだ。勉強なんてしたって無駄』だって考えてね」

 「もう少し戦争が続いていたら、私もこの世にいなかったね。あの頃は、徴兵年齢を十九歳に下げるとか、そんな状態だった。戦争が長引いていれば、私も戦場へ行ってたね」

 戦時中、東川村(当時)内の江卸(えおろし)発電所と、遊水池の建設が行われた。徴兵で男手がほとんどなかったため、強制連行されてきた朝鮮人を発電所建設に、中国人を遊水池建設に従事させた。このことは山田さんの証言でも触れられているが、近藤照衣さん(68)が「どんな大義があろうとも、良い戦争はない―京極医師と大木長蔵さんから受け継いだこと」と題して詳しく話している。

 京極宏医師は当時、極寒の中で厳しい労働に従事させられた中国人の実態をつぶさに見、治療も行った。そのことを戦後、講演などで証言している。

 大木さんは中国で従軍し、日本軍の蛮行を見てきた。町議となり、中国人の遊水池建設のための強制連行を知って以降、実態調査に尽力。自宅の用水路近くに中国人強制連行の石碑と実態を書いた案内板を設置した。

 近藤さんは「今を生きる私たちは、過去の事実をしっかり学び、正しい歴史認識を持って、隣国の人々と友好関係を築いていくことが大切だと思っています」と語っている。

被爆二世
歌で平和を訴える

 会の始まりに「平和の祈り」と題してシャンソンを歌った、被爆二世の松田ひとえさん(74)は、歌と語りで核廃絶を訴えている。松田さんの父・正一さんと母・八重子さんは一九四五年八月六日、広島で被爆した。その後、父親の叔父を頼り、紋別へ。松田さんの五人の兄弟姉妹は「原爆の子」であることを口外しないことを暗黙の約束事にしていた。弟が悪性腫瘍で亡くなったことから、「自分も…」との思いが募るようになった。

 その後、松田さんはシャンソン歌手ジョルジュ・ムスタキの歌「ヒロシマ」に出合い、フランスに留学し、シャンソン歌手に。ヒロシマを歌うことで平和を訴えている。「被爆二世として、歌と語りを今後も続けていきます」と決意を語っている。

 第一集から十七集まで、各五百円(税込み)。購入などの問い合わせは、編集委員の高桑さん(TEL 090―6872―3836)か、あさひかわ西地域・九条の会(メール info@asahikawa-nishi9.org、X/ツイッター @nishi9jou)へ。(佐久間和久)