反対運動だけでなく多岐にわたる社会活動

 カタクリの群落で全国的に知られる突哨山にゴルフ場が建設されようとした時、一人で反対運動に立ち上がった黒川博義さん(享年80)の「思い出を語る会」が二十七日、ときわ市民ホールで開かれた。

 妻の千代子さんや長女の澤田真貴子さん、運動にかかわった人たちなど、約三十人が集まり、「それぞれの黒川さん」を語った。

 黒川さんは一九四一年、東鷹栖村の米作り農家の四代目として生まれた。永山農業高校、法政大学経済学部(通信教育)を卒業。突哨山の麓に住む黒川さんが、ゴルフ場建設が計画されていると知った一九九〇年、道知事や旭川市長、比布町長ほか四機関に、「ゴルフ場で使われた農薬が田んぼに入ると安全なコメが作れなくなる」と、建設を許可しないよう要請する手紙を書き、たった一人で反対運動を起こした。その後、自然保護に関心のある人たちが立ち上げた「突哨山の自然を考える会」(後に「突哨山と身近な自然を考える会」に改称)に参加。中心的な存在として、運動をリード。業者はゴルフ場開発を断念し、二〇〇〇年に旭川市と比布町が「自然環境保全」を目的にゴルフ場用地を買収し、自然公園として開放している。この運動の精神は、突哨山の自然に親しむ目的で毎年開催されている「カタクリフォーラム」や「いも煮会」などに受け継がれている。

 黒川さんは、東鷹栖農協組合長を務めた時、鷹栖町農協との合併協議を進め、たいせつ農協の初代組合長に就いた。この他、自然に親しむ子どもたちの会「グリーンフォーラム旭川」に自宅敷地を提供したり、地元の近文第二小学校の「突哨山学習会」の講師を務めたり、「東鷹栖子ども食堂応援隊」を結成して食材の寄付をしたりと、行動は多岐に渡った。

「こんなに偉大な人だとは知りませんでした」

 語る会の発起人の一人で、突哨山と身近な自然を考える会代表の出羽寛さん(79)は、九一年に初めて黒川さんと出会い、亡くなるまでの付き合いを語り、「旭川市民も知らなかった突哨山が、春のカタクリで全国の人に知られるようになった。黒川さんが突哨山の麓に住んでいた意味は大きい」と話した。

 考える会会員の岡本賢二さん(93)は「カタクリフォーラムなどで使っている東屋を作る時、何の考えもなしに着手した私に、『確認申請をするように』と助言をしてくれた。それが今になって、大変役に立っている。先の見通せる人だった。遠くない将来、あの世で会ったら、そのことを伝えたい」と言って、会場を和ませた。

 考える会会員の石川郁夫さん(86)は、黒川さんの田んぼを借りて、コメ作りをした時のことを、「僕たちが作業をする時間は、黒川さんは仕事ができない。作業に必要な道具の準備など、いつもきちっと用意されていた。コメ作りに関し、黒川さんは、まるで大きな博物館だった」と偲んだ。
 農民連盟で黒川さんと一緒に活動した、友人の森田庄一さん(85)は、東鷹栖山岳会の仲間と羅臼岳に登った時の思い出を話した。「黒川さんのザックが、いやに大きい。羅臼平で休憩した時、その中から特大のスイカが出てきた。それを頂上で食べるため、頑張って登った。素晴らしい景観の頂上で食べたスイカの味は忘れられない」。

 子ども食堂の運営を支える「旭川おとな食堂」代表の岡本千晴さん(50)は「黒川さんが『冬の間は、持って来るものがないんだよな』と言って、ソーメンを持ってきてくれたことがありました。本当に有り難くて…。亡くなった日が、子ども食堂にお米を届けてくれた、その日と聞いて胸に迫る思いがありました」と涙ぐんだ。

 妻の千代子さん(78)は「夫がこんなに偉大な人だとは知りませんでした」と会場を笑わせた後、「家では、本当に無口な人でした。亡くなって一年が経ち、一人でいると、そばにいるような気持ちになる時があります。今年も畑仕事に精を出します。突哨山に来た時は、お寄り下さい。このような会を開いて下さり、ありがとうございました」とお礼を述べた。(佐久間和久)