「ASAHIKAWA DESIGN WEEK(あさひかわデザインウィーク・ADW)2023」が六月十七日から二十五日までの九日間にわたって開催された。今年は「世界とつながります。」をテーマに、海外からも多くのゲストを招へいするなど、昨年よりも規模が拡大したイベントとなった。その内容を二回に分けてレポートする。

“学びの縁日”まちなかキャンパス
6万8000人が来場

 十七、十八日の二日間行われた「まちなかキャンパス」は、SDGs(持続可能な開発目標)を実践できる人材やデザインについて考えられる人材、自ら学ぶ意欲のある子どもの育成などを目的に、子どもたちが地域の先輩から学ぶ体験型のイベント。宮下通から七条緑道までの買物公園を会場に、市内の高校生や大学生らが五十七のブースを構え、小中学生向けの「SDGs」や「デザイン」に関連するワークショップや展示を行った。

 イベントには家族連れを中心に多くの人が訪れ、二日間で、延べ六万八千人が来場。各ブースで行われたワークショップは時おり、順番待ちの列ができるなどして、いずれも盛況だった。

 また今回は、高校生や高専生で組織される学生委員会が中心となりイベントを運営。何度も打ち合わせを重ね、事前準備から当日の指揮など、ほとんどの業務を同委員会が行った。

 学生委員会代表の嶋田太一さんは「いくつかトラブルもありましたが、昨年に比べて運営に関わる学生数が増え、学生主体感がより強まったイベントになりました。今年もたくさんの方に来ていただきましたが、まだまだ成長できる余地があると思っているので、さらに盛り上げていきたいですね」と、すがすがしい表情で二日間を振り返った。

 実行委員会の浜田良樹会長(旭川高専教授)は「ブースを出展した学生も来場者も、会場にいた人みんながとても明るい表情で、それぞれに楽しんでいたのが印象的でした。このイベントが確実に浸透していると感じられ、今年も無理なく、また一歩前進できたと思います。今後は、参加できなかった学校も含めたフォローアップイベントなども行いながら、次の年につなげられたら。これからも立ち止まることなく、歩き続けていきます」と語った。

30人の有識者が討論
「デザイン会議」旭川初開催

 二十日には、多様な課題を抱える現代社会で、「デザインにできること」や「デザインが進むべき道」を語り合う「あさひかわデザイン会議」が、大雪クリスタルホールで開かれた。

 議長を務める桐山登士樹さん(富山県総合デザインセンター所長)は一九五二年、長野県生まれ。技術開発の研究者、広告マーケティング、デザイン・建築の編集者を経て、八八年にデザインの企画制作会社・TRUNKを設立。九三年から富山県総合デザインセンターの設立に向けて活動。同年秋、日本を代表する企業の部長クラスのスタッフが富山に一堂に会して「デザイン会議」を初開催した。現在は、東京・富山・ミラノを拠点に、ブランドプロデュース、展覧会のキュレーションなどを行う。

 今回の会議には、道外企業の開発・デザイン担当者など十五人と、市内の家具・食品など様々な業界から十五人の計三十人が参加。「産業観光」「自然環境」「地域経済」「都市と人」の四グループに分かれてアイデアを出し合った。

 各グループ内で、一時間半ほどディスカッションを行った後、それぞれが討論内容を発表。

 「旭川にはたくさんの資源・ヒト・技術があるので、『DIYカルチャー』をつくって、自分でものづくりができるまちにする。旭川だからこそできる体験を観光客にも提供することが、旭川に住んでもらうことにもつながっていくのではないか」

 「手つかずの土と木があることが魅力。自然環境の良い部分はたくさんあるので、それがデザイン都市としてどのような魅力になるのか、その魅力をどうすれば価値に結び付けて発信できるのか、もう少し議論を深めていきたい」

 「旭川の企業、行政を含めて全体でブランディングをしていくべき。旭川はインディーズでいいので、デザイン性をさらに高めるのではなく、旭川らしい独自のもので勝負できるのではないか」

 「旭川市民一人ひとりがもっと地元を愛せたら、どこにもないまちになる。それは、外から見ても魅力的に映り、デザインがベースにあるので、それに関わる人たちも集まってくるのではないか」など、それぞれの視点でアイデアがまとめられた。

 桐山さんは最後に「今の時代、一番考えなければいけないのは『同質化』ということ。例えば、旭川でも東京でも、世界どの都市にいても、同じようなファストフードや料理が食べられることを価値と考える人たちが増えてきているというのが怖い。この同質化を意識しながら、『なぜ旭川なのか』という部分を、もっと明確に掘り下げなければなりません。旭川にはすでに、デザインのDNAはあって、これまではほとんどの人にとって他人ごとだっただけ。それをもっと広げるきっかけづくりをすればいい。これをできたところが、二十一世紀の中で、イニシアチブを握って輝けるまちになると考えています」と総括した。(東寛樹)