ウクライナに住んでいた降旗英捷(ふりはた ひでかつ)さん(81)が、ロシアのウクライナ侵攻で日本に避難し、永住帰国後の半生を書いた『サハリン、ウクライナ、そして帰郷 ソ連残留日本人の軌跡』(ユーラシア文庫・群像社出版)=写真=がこのほど発行された。
この本は長野県の「信濃毎日新聞」に連載したものをまとめたもの。ロシア語で降旗さんが執筆し、追加質問をして日本語でまとめた後、再度ロシア語に訳して降旗さんに確認してもらうという、根気のいる作業を重ねた。担当した同新聞文化部デスクの山口裕之さんは大学でロシア語を学んだ。
降旗さんは一九四三年南樺太生まれ。四五年ソ連軍の樺太侵攻で、一歳八カ月の降旗さんは両親と二人の兄姉とともに樺太に取り残された。「父親は灯台の無線通信士をしており、引き上げ船の航行を守るため業務を続けるよう指示されたのでは」と書いている。
子どもの頃は貧しい生活で、いつも腹を空かせていた。五三年、家族はポロナイスクに強制移住させられる。六一年、学校を卒業後、製紙コンビナート工場に勤務。工場内の貼り紙を見て、奨学金を得ながらレニングラード工科大学に進学。苦学生で、生活に追われていたが追試は一回だけだったと回顧する。
大学四年の時、ウクライナ生まれで、後に妻となるリュドミーラさんと出会う。六六年に結婚、翌年、長男・ヴィクトル君誕生。サハリンで、出世のため嫌々ながら共産党に入党。三年住んだが、その後ウクライナに移住。親戚を頼りながら、居住地を転々と変え、七二年、やっと工業都市ジトーミルに落ち着く。九一年、ソ連崩壊。ソ連から独立後のウクライナは、富が一部に集中し、多くの人々は苦しい生活を強いられた。
降旗さんは物価、医療、はびこる汚職などを厳しく批判。十分な治療を受けられず亡くなった妻と、その後を追うように若くして肺炎で死んだ息子に対する医療のずさんさを嘆いている。
降旗さんが日本に初めて旅行し、兄姉妹に会ったのは二〇〇七年。それ以外、生まれてから七十八年間、一度も故郷の土を踏むことがなかった降旗さんの人生は、本の記述内容が淡々としているだけに、過酷であったに違いないと思わざるを得ない印象を受ける。
「おわりに」の章で、「帰国後、北海道旭川市長、市役所職員、市民の皆さんの精神的、物質的な支援のおかげで、この旭川で自立した新しい生活を始めることができました」と感謝の意を書いている。
定価・九百円+税。こども冨貴堂(七条買物公園)で販売している。(佐久間和久)