画家の菱谷良一さんが七月三十一日、「百歳!!『旭川今昔ばなし』」と題して旭川文学資料館(常磐公園内)で講演した。

 同館で二十八日まで開催されている「木野工『旭川今昔ばなし』直筆原稿展」の記念企画のひとつ。菱谷さんが子どもの頃の写真がパワーポイントで映し出されると、懐かしそうに眺めながらゆっくりと話した。ユーモアを交え、集まった二十人ほどの参加者の笑いを誘った。

 菱谷さんは「日章小学校に通っていた時、木野工さんの弟が私と同級生でした」と木野との関係から話し始めた。

 中島遊郭について、「軍隊のまち旭川で、最初の遊郭は曙町にできたのですが、より近いところの常盤町に中島遊郭ができたのでしょう。入口に大きな門があり、立派な建物が並んでいました。建物の中に入ると、女の人たちの写真が、いっぱい飾ってありました。自分たちが住む世界とはまったく違った世界なんだと感じていました」と説明した。

 詩人の小熊秀雄が記者として勤めた旭川新聞社の社屋が映された時、「私の親父も記者でした。新聞が売れなくなると、美人コンクールの企画をしていましてね。投票用紙に名前を書いて、一票を投ずるのですが、学校の前で子どもたちにも用紙と鉛筆を配ってました。鉛筆をもらった子どもたちは廊下に立たされまして、どうしてなのか理由が分かりませんでしたね」と参加者を笑わせた。

 現在の「買物公園通り」は、かつての「師団通り」。「昭和四年、舗装になりスズラン街灯がつきました。レストラン三日月から匂ってくるソースの匂いが、おいしそうでねぇ。初めてカレーライスを食べた時、『こんな美味しいものが世の中にあるのか』と思いましたよ」

 「私は大変な映画青年でしたので、映画館にはしょっちゅう通いました。当時はサイレント映画で、弁士と楽団がついて、『美しき天然』なんて曲を流して…。玄関には下足番がいて、椅子ではなく畳席でした。座布団は五銭、アンカは十銭でした」と、かつての旭川を思い出しながら、

約一時間にわたってかつての旭川の話を披露した。(佐久間和久)