「白川先生が遺された
文字の解釈を元に」

 書家の瀧野喜星さん(75)がこのほど『文字のふるさと』(アトリエ雪墨)を発行した。月刊誌「グラフ旭川」に二〇一六年から二一年までの五年間、連載した「文字のふるさと」の原稿に一部加筆修正を加えた。

 この連載は、漢文学者で立命館大学名誉教授の白川静の著書『字統』などを基本に瀧野さんの考えも交えながら、分かりやすく漢字の成り立ちを紐(ひも)解いている。連載中から、非常に人気の高かったページだった。

 漢字は、漢時代の『説文解字』を基本とした辞典が中心で、今も聖典とされているが、一八九九年に発見された甲骨(こうこつ)文字の発見で文字学は飛躍的に発展した。白川氏は甲骨文字をもとに、中国の古代文献と甲骨文字とを体系的に解明した。

 瀧野さんは、第一回連載のはじめに「白川先生が遺された文字の解釈を元に、書家・瀧野喜星が感じたままに、いくつかの漢字の成り立ちとその表現を探っていきたいと思います」と書き、まず「女」という漢字=右下写真参照=を選び、こう書く―。

 「女」という漢字は、「男性の前で女性が両手を合わせて跪(ひざまず)き隷属する姿、いわゆる男尊女卑の思想が反映された文字として認識され、利用されてきました。ところが甲骨文字をよく見ると、跪いた女性の周りに水滴のような点々がついています。これを『お酒の滴』であると解釈したのです。この象形文字は、お酒で清め祓っている様子を表した字形であり、『女』という字形は男の前に跪いているのではなく、神の前に跪き、神霊(祖霊)に仕える女性の姿を表したと解釈するのが自然なのです」「祖霊を祀る担い手が原始、女性であったことを思いますと、それは連続テレビ小説で力強く活躍する女性像と妙に重なって、一人ほくそ笑んでいる私です」

五十歳前後から
白川著書に傾倒

 「学生時代、白川先生の書いた本を買って覗いてみたのですが、何が書いてあるのか、さっぱり分かりませんでした。教員になり、だいぶ経った時、夜中にテレビで白川先生が話しているのを聞き、何か感じるものがあり、もう一度読み直してみると『なるほど』と納得がいきました。もう五十歳前後になっていましたが、白川先生の著書に傾倒していきました」と振り返った。

 『文字のふるさと』の中の象形文字や甲骨文字は、全て瀧野さんが筆で書いた。この筆字が多用されていることで、読者にとっては難しい内容を理解するのに大きな手助けとなっている。

 瀧野さんは筆で絵も描く。いただいた名刺にはペンギンが描かれていた。取材にうかがったアトリエには、一筆で描いたタンチョウの絵に文字の入った掛け軸もあった。この本の中に入っている筆字が、絵のような働きをしているかのようだ。

 地の文の原稿も、原稿用紙に鉛筆書きだった。「『書家のお前がパソコンを使うことになったら、世も終わりだ』と酒席でたびたび悪友たちから言われたので、結局この歳になるまでやらなかった。いまさらやろうと思っても、もう遅い」と笑う。

書道を始めたのは、
高校三年生から

 野球少年だった瀧野さんが書道を始めたのは、高校三年生になってからだという。それも大学受験が間近に迫っている初冬だった。

 「進路担当の先生から『大学はどこを受ける。将来は何になろうとしているんだ』と聞かれたので、『教育大学を受け、数学か社会の先生にでも…』と答えたら、『やめろ。一流になろうとしたら書道の教師になれ』といわれたので、書道の枠で受験しようと。それからです。だから遅いんです」と話す。

 結果的には、それがよかったと瀧野さんは言う。初めから、専門家に習うことができたからだ。しかし、書道専門に教える教師を抱え、授業を組んでいる高校はそう多くはなく、初めて書道だけの授業を持つことが出来たのは四十歳を過ぎていた。

 いま市内の高校書道部の活動は盛んで、そのレベルは道内トップクラスだ。書道を専門とする教員たちの中には、瀧野さんの教え子も多い。瀧野さんは今も、國學院大學北海道短期大学部で教鞭をとっている。

 瀧野さんは「書家だからこそ、漢字の成り立ちや意味を知った上で、筆を取らなくてはならないと思っています」と言う。『文字のふるさと』の「おわりに」で、瀧野さんは「古代文字を理解することは、古代人の生活は勿論のこと社会組織そのものを理解することにつながると思います。古代文字を理解することは、人間の社会そのものを理解することにつながると思うと、文字を書く時代から文字を打つ時代に変わっても、今まで以上に文字文化を大切にしなければと思うのです」と結んでいる。

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 『文字のふるさと』の定価は千三百二十円(税込み)。購入の問い合わせは、あいわプリント(三ノ四、TEL26―2388)まで。(佐久間和久)