40歳で「北海道経済」
社長に就任

 

 月刊誌「北海道経済」会長の西田勲さんが五日、急性肺炎で亡くなった。八十四歳だった。

 西田さんは一九三七年十二月、酒類販売業の西田商店の次男(長男は早世した)として旭川市に生まれた。旭川商業高校を卒業後、小樽の寿原食品に入社。二年ほど勤めた後、西田商店の後を継ぐために帰旭。その後、他酒店と合弁会社ワインセール旭川を設立(二十年ほど前に解散)。そして七七年、四十歳の時、自身も就いていた旭川商工会議所の他役員とともに「北海道経済」の事業を継承する形で、社長に就いた。

 同誌をバックアップしていた経済人らの目的は、五十嵐広三、松本勇と十五年間続いた革新・社会党から市政を奪還し、保守・自民党市政へと転換することにあった。旭川青年会議所を卒業したばかりの「血気盛んな西田さんがその大役を担わされていた」と証言する経済人もいる。

 西田さんの次男で、同社現社長の稔さん(56)によると、社長就任は「森山病院の先代・元一さんが『社長は西田君に』と言った一言で決まったと聞きました」と話す。森山元一さんは、敗れたものの、七一年の市長選で現職の五十嵐広三さんと闘っていた。

 西田さんが社長に就いて一年後に行われた市長選で、保守候補の坂東徹さんが二選を目指した松本さんを破り、初当選を果たした。坂東さんは四期市長を務めた。

 家業を継いで、数年経った六三年、四条十五丁目に当時としては珍しい鉄筋コンクリート造りの西田ビルを建設。資金繰りが順調でなく、困っていた時、当時、道内繊維最大手の東栄社長で、市内経済界を代表する一人と言われた松山正雄さん(一七―二〇〇六)が、ビルに隣接する西田さん所有の土地を買い上げてくれて、急場をしのぐことができたという。

 この二つのエピソードは西田さんの“期待される青年像”を彷彿とさせる。

 

「冬季オリンピック招致」と
「ラーメン大賞」

 

 六六年創刊で、歴史のある「北海道経済」が市内の政治・経済界に及ぼした影響は大きかった。

 七一年入社で、西田さんが同社社長に就いた時は、第一線の記者だった元編集長の村上史生さん(72)は、北海道経済が、最も大きな影響を与えた事例に、「冬季オリンピック招致運動と、ラーメンのまち・旭川を全国版にした『ラーメン大賞』の企画」と話す。

 九八年の冬季オリンピックは、長野が開催地になったが、旭川では国内の候補地が決定する四年ほど前から、西田さんが会長となり「冬季オリンピックの招致を考える会」が運動を展開した。

 村上さんは「保守から革新まで一緒になり、同じ目的に向かって運動を繰り広げたのは、後にも先にも、この時だけ。西田社長の情熱が原動力になった」と今でも興奮冷めやらぬ様子で語る。

 「ラーメン大賞」は雑誌に付いている応募ハガキの数で、“市内で最も美味しいラーメン店”を選ぶ企画。

 「三十年ほど前、西田社長の発案で始めたもので、雑誌が飛ぶように売れた。一方、このことが話題となり全国放送のテレビやラジオが旭川に取材に来て、『ラーメンのまち・旭川』が一気に全国版になった。この企画は数年ごとに、形を変えて三回ほど行った。老舗の酒店を経営していた商売人としての本領が発揮された企画だったと思う」と村上さん。

 

若いころ
アナウンサーに

 

 稔さんは「父は若い頃、アナウンサーになりたかったそうです」と明かす。動機はハッキリしないが、旭商高時代、夜間部の生徒を励ます校内放送が非常に好評だったと自慢していたことがあったという。

 HBC(北海道放送)で週一回、五分間の番組を持っていたこともあった。旭川地域の時事ネタを拾い、解説したり、ゲストを招いて対談をしたり、「録画ビデオを見ると、ゆったりと堂々とした話しぶりで、今でいうユーチューバーですね」と稔さんは笑う。 各種選挙の投票結果が出る深夜、ポテト(旭川ケーブルテレビ)で情勢を解説している西田さんの姿を覚えている人も多いはずだ。

 映像にも興味を持っており、最も初期の家庭用ビデオテープレコーダーの「Uマチック」(ソニー製)を旭川で最初に買ったのも西田さんだったという。

 ソニー創始者の一人、盛田昭夫さんが来旭した時、Uマチックを持っていることを伝えると、「もし何か不具合があったら、僕に直接電話を」と名刺をもらい、握手をしてくれたエピソードを自慢していたそうだ。

 

妻の介護受け10年間
自宅で車椅子生活

 

 健康だった西田さんが二〇〇七年四月、自宅で倒れた。脳出血だった。手術後の十年間、妻・光子さんの献身的な介護を受けながら、自宅で車椅子生活を送った。

 稔さんは「六年ほど前までは、会社にも週一回、顔を出していました。現役の頃には、旭川青年大学や旭川音楽振興会の理事長を務め、プロバスクラブやケーブルテレビ・ポテトの役員だったので、色々な方々から声をかけていただき外出するなど、車椅子生活を嘆くことなく、結構楽しく過ごしていた」と振り返る。

 一七年、転倒が原因で圧迫骨折をしたのを機に、介護付老人施設に入所。ここでもコロナ禍の前までは、これまでと同様に色々な人たちが訪ねてきて誘い出した。八十歳になってから、アイパッドを購入。興味あるユーチューブを検索し、楽しんでいたという。
 今秋、肺炎で森山病院に入院。五日午前七時十一分、逝去した。

 稔さんは「安らかに眠るように亡くなりました。微笑んでいるような死に顔でした。人の縁で、多くの人に助けられ、楽しく、恵まれた人生だったと思います」と父・勲さんを偲んだ。(佐久間和久)