慶子さんの急死で
出版、間に合わず

 あとがきに、「今年一月二十三日で九十五歳になった。これまで書いてきたことを文章にまとめ、こんな人間がいましたと本に残したい」とある。

 二〇二一年七月の第七十五号で終刊号となった『旭川ふだんぎ』の代表・岡田勝美さんが、今年五月末『戦中戦後 二人それぞれの思い出 河合慶子 岡田勝美 作文・記録集 第三巻』を出版した。岡田さんと妻の慶子さんの記録集だ。

 ふだんぎは、東京都八王子市の故・橋本義夫さんが一九六八年に「庶民自らが庶民の歴史(自分史)を記録する」と提唱し、始まった運動。旭川では、岡田さんが中心となり八〇年、北海道で三番目のグループとして発足。以後、岡田さんは慶子さんと二人で編集作業に取り組んできた。慶子さんが一七年に逝去。四十一年続けてきた、ふだんぎ運動の幕を閉じた。

 慶子さんが亡くなる三年前、慶子さんの次兄松夫さんが亡くなった。岡田さんは翌一五年、松夫さんの一生を記録した『十勝平原・士幌に生きる』を出版。「次は慶子さんのを…」と約束していたが、慶子さんが急死。岡田さんは「私は口惜しく悲しく途方にくれた。私は泣きながら二年後の二〇一九年十一月三日の結婚記念日に『十勝国士幌に生まれて』を結婚前の河合家、本人の生き方を中心に編集出版した」(『十勝・士幌村』〈二〇二二年刊〉あとがきから)。

第1、2巻
十勝全域の図書館に

 その後、岡田さんと慶子さんの作文・記録集を二巻発行。一、二巻のほとんどは、慶子さんと実家の河合家に関する記録だった。岡田さんは「慶子さんは、戦争を憎み、世の不正、軍事に動く政治・世相を批判する思いを生涯持ち、書き続けていた。私はその慶子さんの思いを文から受けとめてほしいし、世の人々にも知ってほしく」(同)と、十勝全域の図書館などにこの本を贈った。岡田さんは「慶子さんと結婚して、戦争について何も知らなかった私は、大きく変わりました」と語る。

中学校時代
“西洋かぶれ”

 今回、発刊した第三巻は、東京高等師範学校を卒業し、旭川東高校で教員生活を始める前までの記録だ。

 岡田さんは一九二九年(昭和三年)十勝管内直別村に生まれ、翌年父・熊太郎が士幌村長から土木主任として招かれたため、同村に転居、約八年間住む。小学校で岡田さんと慶子さんは同級生。岡田さんは自治会長、河合恵子さんは副会長だった。三六年、三年生の時、父の転勤で砂川町に移る。一五年、滝川中学校に入学した。

 中学校時代、岡田さんは“西洋かぶれ”だったと吐露する。

 「中学生の頃は、ゲーテやスタンダール、ユーゴーなどフランスやドイツの小説や詩に没頭していました。日本文学にはほとんど関心がなかった。どうしてなのかよく分からないのですが、母が叔母から受け継いだ下宿屋に下宿していた年上の人たちの影響を受けたのかも知れません。キネマ旬報などの映画雑誌もあり、そこに載っている美女たちに心をゆすぶられました。太平洋戦争へとなだれ込んでいく世相とは全く無関係に、西洋かぶれしていた中学生でした」と振り返る。

陸軍予備士官学校
ほとんど記憶になし

 敗戦の半年前、四五年二月、父親に勧められた陸軍予備士官学校に入学した。

 「陸軍予備士官学校時のことはほとんど記憶にない。期間が短かったこと、一日の日課期限のきまりのまま毎日が過ぎ、特に印象に残る事件などがなかったというなどのせいだろうが、私に特別軍人としての自覚めいたものがなかったせいもある」「四月から沖縄戦やフィリピンの激戦など情報はほとんど知らされず、もれ聞こえても来なかった。…私たちの日常は割にのんびりしたものだった」と書き、「日付からすると、東京大空襲の日だったのですが、空が真っ赤になっているのを見ました。その下で十万もの市民が猛火に焼かれたことなど、戦後になって初めて知りました」と語る。

 玉音放送は疎開先の浅間山で聞いたが、「雑音がひどく、よく聞き取れなかった」。中隊長の説明で日本が戦争に負けたことを知ったものの、嘆き悲しむ周りの雰囲気に付いていけず、一人取り残された気持ちだったという。

食と住に窮した
4年間の学生生活

 復員し、翌二一年に北大医科と東京高等師範学校を受験。二校とも合格したが、「漢詩・漢文の勉強がしたい」一念で、師範学校を選んだ。

 “西洋かぶれ”の中学生だったが、漢文が好きで、国語の試験の解答を漢文で書いたこともあったという。「意気な先生もいて、答えが合っているとマルをくれました」と笑う。

 東京での学生生活は住むところに窮し、友人の下宿や家、バラック、金物店の屋根裏、風呂屋の釜の上の隙間など、七回も住むところを変えた。

 食事も「何を食べて生きていたのか、ほとんど記憶にない」という状態で、「バラックにいた時、米少々をコンロで煮て塩をつけながら食べたこと、コッペパン一コで一日空腹に耐えたこと、リンゴ一コで我慢したこと、この程度の記憶しかない」と記している。卒業論文は列女伝について書いたが、五十年後、担当教授から返却された論文を手にし、「箸にも棒にもかからぬ論文」だったと猛省。

第4巻は
24年初めに出版計画

 二五年に高等師範学校を卒業し、旭川東高校の教員となった。

 岡田さんは、「少年だった私は戦争についても無知無関心な愚かな男でした。この本に書いたことは、恥ずかしい男の記録です。その男が慶子さんと結婚し、変わりました。第四巻は、慶子さんと始めた『ふだんぎ』の運動や、今では覚えているのは私ぐらいしかいない、中国の文化大革命で分裂してしまった旭川日中協会、旭川交響吹奏楽団の前身の旭川フィルハーモニー協会などについても書いておきたい」と語る。

 「体力が続くかどうか心配」と言うが、来年初め頃の出版を計画している。これが、最終の出版となる。(佐久間和久)