二〇一六年に東川町に移住し、大雪山を中心とした日本の山々に関する膨大な量の図書や資料を所属している「大雪山アーカイブス」の設立準備と運営に尽力した清水敏一さんの追悼集『光輝燦然(こうきさんぜん)―大雪山を“掘った”山岳史家 清水敏一追悼集』=写真=が今年一月一日、発行された。
清水さんは二三年三月六日逝去、九十歳だった。一月一日は清水さんの誕生日に当たる。
本書の発行者は、生前の清水さんと親交のあった五人の編集委員。ありし日の清水さんを知る九十人に及ぶ人々の思い出の記のほか、清水さんの未発表の原稿、講演記録、新聞記事、清水さんの山旅登山年表などからなるA五判・五百二十八㌻。
清水さんが「お世話になった」と話し、深く親交のあった二人。町議会議員の鶴間松彦さんは「『生涯現役』を貫き敬愛してやまない清水さんに深謝」と寄稿し、町内在住の元北海タイムス記者の西原義弘さんは「笑い話のようで、笑えない話」と題して、清水さんが東川町に移り、定住するまでの経緯をユーモアを交えて書いている。
大雪山アーカイブスを設立した、前町長の松岡市郎さんは「大雪山国立公園指定90周年に清水敏一氏を偲ぶ」と題し、「『ペンを持てば作家、座れば噺家、歩く姿は登山家』、映画に出演すれば庶民的な脇役『俳優』と清水敏一さんの多彩さには驚愕したものだ」と印象を語る。
このほか、登山家仲間はもちろん、清水さんが突出した研究成果を残した「大雪山の父」と呼ばれた小泉秀雄の子孫やアーカイブスの展示会で知り合った人々、日本語学校に通学した留学生たち、公営住宅に住んでいた清水さんを訪問していたヘルパーなど、多士済々が清水さんの人柄を偲んでいる。
パソコンに残っていた未発表原稿の、妻・久仁恵さんを書いた「山妻物語」も掲載。その中には清水さんが若い頃、山岳詩人の名を借り、久仁恵さんに贈った詩も。
山旅登山年表は、一九五四年(昭和二十九年)六月から始まり、九四年(平成六年)までを記載している。
非売品。三百部発行し、上川管内の小・中・高校図書館や清水さんと交流のあった全国の山岳文化団体・施設などに配付した。(佐久間和久)