ネタに詰まって、いやいや、今週に限ったことではないが、気晴らしに名画を鑑賞すれば、動きが鈍い脳みそを刺激するのではないかと愚考して、ギャラリーシーズ(旭町二ノ三)に行って来た。「私の逸品展」。市内の美術コレクターが収蔵している作品を借り受けて展示している。藤田嗣治、国松登、蝦子善悦、マルク・シャガール…。むろん、高尚な鑑賞眼など持ち合わせてはいないが、したり顔して作品の前に立てば、ましてそれが時代を超えた名作と評されるモノであればなおのこと、判ったような気分になれる。さて…。

 あるシンポジウムの会場でのこと。西川将人市長も顔を見せ、最前列に座っていた。取材を兼ねて参加した私の、すぐ前の席。小休憩の時間、ある方が市長に近寄り、何やらヒソヒソ話し始めた。そのうちに彼は、市長の肩に手をやり、肩を抱くような姿勢で耳打ちをする。この勉強会の関係者で、この後に予定されている挨拶のタイミングの打合せかと思ったが、そうでもない様子。しばらくして、彼は、その場から去った。

 何だか、すごくイヤな気持ちにさせられる光景だった。若いとはいえ、西川氏は、市長だ。三十六万人の市民のリーダーだ。三千人を超える市職員組織の先頭に立つ人なのだ。その“我らが市長”に対して、どれほど個人的に親しい関係なのか知らないが、大衆の面前で肩を抱いて耳打ちするとは、何事ぞ。あと一分、彼が同じ行為を続けたら、私は多分、指摘していた。「あんた、分をわきまえた方がいいんじゃないですか」と。あくまでも、やさしい口調で。

 断っておくが、市長を雲の上の人に祭り上げろ、と主張しているわけではない。普通の市民の間に入って行って、その生の声に耳を傾けるのは、大いに結構だ。それが、次の選挙に好結果をもたらすだろうことを目論んでいたって、一向に構わない。政治家なのだから。が、そのことと、市民の側が示す親愛の情、あるいは支持を表す行為とは、別の次元の話だ。三十六万人の生命と暮らしに対して重大な責任を負っている立場の人間に対する接し方が、おのずとあるはずではないか。

 同じ会場で、私と同じ光景を見て、忿懣やる方ないと感じたと言う企業経営者と話した。彼は、こう言った。「肩を抱いたアイツも悪い。市長と親しいところをあの会場にいる人たちに誇示したかったんだろう。勘違いもはなはだしい話さ。だが、市長はもっと悪い。なぜ、肩に回された手を振り払わなかったのか。国会議員でも、道議会議員でも、もしかすると市議会議員でも、とにかく議員ならば、何でも良かった。全てはタイミングのなせるわざで、思いもしなかった市長に当選しちゃったんだ。このまちに対する、理想像も、そのために目ざすべき方向も、具体的な施策やアイデア、人脈も何もない状態で、市役所にポンと放り込まれた。三十六万人の長という自覚が、彼の中にない、だから、あんな無様な光景を人前にさらす、そういうことだ」。

 公約に掲げた、市役所の機構改革も、職員に対するコンプライアンス条例も、自らの意志と、指示で動かすべき職員の反発を前に、先延ばしだ。目玉の一つに掲げた「食品加工研究所」の開設も、農政部と商工観光部に五十万円ずつ、スズメの涙と言えば、スズメちゃんが怒りだしそうな微々たる予算を付けただけ。そんなもの、担当職員が先行施設の視察とかなんとか理由を付けて、旅行気分で出かけて行って、具にもつかない報告書を作るのに大層な時間をかけて、はい、ジ・エンド。そんなところだろう。

 「連日、夜の付き合いで、身体が心配です」なんてオチャラケている場合ではないんだ。国からの交付税が予測を大きく下回る事態の中で、どんなまちを目ざすのか、そのための“政府”は、どのように変わらなければならないのか、地方自治のあり方を、しっかり勉強して、具体的に市民の前に提示してくれ。人が良くて、若い割に付き合いがいい、それだけの人をトップに仰がなければならない市民は、不幸の極みだ――。

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