少し前の小欄に書いた菜の花の芽が、六月にしては異常とも言える猛暑のせいなのか、背丈は十五㌢ほどなのに、小さな黄色い花を咲かせ始めた。家人が「花が開く前に食べなくちゃ」とせっつく。その夕、我が家の食卓に念願の辛子和えが載った。淡い苦さ、シャキッとした歯触り、予想通りの味わいだった。
その食卓で家人が「菜の花ってセシウムを吸収するらしいじゃない」と言う。「チェルノブイリで汚染された土を浄化するために菜の花をたくさん作っているそうよ。福島でも、3・11の後、菜の花やヒマワリを育てて土から放射能を取り除く実験をする話があったじゃない。セシウムは水溶性だから、種を搾って取るナタネ油にはほとんど含まれないんだって。その代わり、茎や葉はセシウムをどんどん吸収して、それからバイオマス燃料を作って、その残りかすに放射能が濃縮されるから、それをきちんと回収して管理する。菜の花でセシウムを除去するって、そんな感じらしいわよ」と。途端に、辛子和えに伸びる箸の頻度が減った。
風評を煽るとか、福島に暮らす人たちを傷つけるとか、そうしたレベルを遥かに逸脱する規模と深度で、私たちはパラドックスのただ中に放り込まれ、生きることを強いられている。
原子力発電所が作る電気は「コスト」が安いなんて、二〇一一年三月十一日を境に、日本中で誰一人信じていないはずなのに、カラクリが暴露されたにもかかわらず、「経済のために原発を再稼働する」と堂々と宣言する総理大臣の支持率は六〇%に達する。品の悪い冗談みたいだなと嘆いているうちに、まるで独裁国家のごとく、鶴だかヅルだか知らないが、その一声で何事も決定されるのだ。
(工藤 稔)
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