亡父は一九二三年(大正十二年)の早生まれだから、アジア太平洋戦争で日本が敗戦を認めた一九四五年八月十五日の時点で、二十二歳だった。旧満州でソ連軍の捕虜となり、シベリア鉄道経由で中央アジア・ウズベキスタンの首都タシケントに送られた。帰国するまでの二年間、共産主義の国で強制労働に従事した経験を、一九五一年(昭和二十六年)生まれの私が小学生の頃、眠りに就く前の布団の中で聞かせてくれたものだ。

 「父さんのシベリアエレジーのはじまり、はじまりー」で始まる捕虜時代の物語の幾つかを半世紀以上を経た今も、私はかなり鮮明に記憶している。例えば、ソ連兵のジープで砂漠にカメの卵を獲りに行った思い出や、バザールで回教徒の男性が頭の上に載せている丸く平たい帽子を盗んで走る泥棒のこと、そして建設中の国立劇場の足場の上から落ちて死んだ捕虜仲間の話など。戦後団塊の世代の尻尾みたいな時期に生まれた私の中に、あの戦争は皮膚感覚として、明確に、ある。

 安倍晋三首相は一九五四年(昭和二十九年)の生まれだそうだが、父親の安倍晋太郎・元外相は、東京帝国大学に入学と同時に、海軍滋賀航空隊に予備学生として入隊し、そのまま敗戦を迎えて大学に復学しているというから、卑賤な系譜に生まれた私の父親のように、息子に語る戦争体験を幸いにして持ち得なかったのであろう。いとも軽く「国民の命と財産を守るために」と口に出す彼の「命」という言葉の軽薄さのゆえんの一つは、そこにあると私には見える。

 その安倍首相が、集団的自衛権の行使を認める閣議決定を今日にも行う構えだ。正直に言うと、こうして書いている私自身も「集団的自衛権の行使」という言葉が、国や自衛隊や私たち国民に、どのような行動を許し、どんな結果を引き起こし、どんな状況が露呈するのか、具体的にイメージするのは難しい。

(工藤 稔)

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