優佳良織工芸館の館長、木内和博さんが十三日夜、亡くなった。七十歳。二〇〇八年(平成二十年)に肺がんの手術を受けてから八年に及ぶ壮絶な闘病の末の死だった。生前の木内さんと親交があった五人の方たちの話を中心に、あさひかわ新聞創刊のエピソードを交えて、旭川が大好きだった故人をしのびたいと思う。

 木内さんは、一九四六年(昭和二十一年)、母親で優佳良織を創設した織元、木内綾さん(二〇〇六年没)の長男として旭川で生まれた。旭川西高を卒業後上京したが、母親の仕事を支えるために帰郷。事業の拡大と伝承工芸としての確立に力を注いだ。一方で、政治や経済の分野でも積極的に活動、発言し、まちづくりに大きな役割を果たし続けた。

 木内さんの名を聞いて多くの市民が思い出すのは、一九九〇年(平成二年)十一月の市長選挙だろう。当時、このまちの政治と経済を牛耳っていた既存勢力に対抗し、若手の企業経営者らが「経済人会議」なるグループを結成、政治の刷新を掲げて市長選の候補者を公募した。

 全国から自薦、他薦があった中から選ばれたのが、NHKの元旭川放送局長。ところが、市長選挙告示の十六日前、その候補予定者にがんが見つかり緊急入院する事態に。そこでピンチヒッターとして立候補したのが、中心メンバーの一人、木内さんだった。結果は、四期目を目指した現職が九万八千票余りを獲得。木内さんは一万七千票の差で敗れた。「あと一週間あれば、勝てた」という声も少なくなかった。

 木内さんは、旭川市長から衆院議員になり、建設大臣や内閣官房長官を歴任した社会党(当時)の五十嵐広三さん(故人)の選挙参謀の役割を長く果たした。そのため、革新(すでに死語か)のイメージが強いが、その人脈の広がりは、そんな狭い範疇にとどまらなかった。歯に衣着せぬ発言やたぐいまれな行動力から誤解を招き、自ら敵をつくってしまう面も少なからずあった。だが、立場上は敵と目される人から相談を持ち掛けられると、損得を度外視して手を差し伸べる姿を、近くにいる人間は幾度も見ている。

 故人と親交が深かった方々に話を聞いた。

(工藤 稔)

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