さほど豊富とは言えない経験やら知識やらを総動員し、心もとない想像力を働かせて、自分の頭で考える。どちらが正しいとか、誤っているとかではなく、今、そして今から、私はどのような価値観を基準にモノを言ったり、行動したりするのか、それを見極めなければならない、ということだ。

 関西電力高浜原発(福井県高浜町)三、四号機の再稼働をめぐり、安全対策は十分ではないとして運転を差し止めた大津地裁の仮処分決定を、大阪高裁が三月二十八日、国の安全基準に不合理はないと取り消した。社会的、政治的に関心を集める訴訟で、地裁の判断を高裁が覆す。よくあることだ。朝日川柳(三月三十日付)の一首「この国はそもそも司法が忖度(そんたく)す」。

 司法の判断が割れたことに対して、新聞も全く逆の評価をする。二十九日付の読売と朝日の社説を読み比べよう。まず、「非科学的な地裁決定が覆った」と見出しを打つ読売。

 ――厳しい規制基準に基づき、十分な安全対策が施されている、との判断は極めて現実的だ。(中略)

 大津地裁は、関電による説明が不十分だと決めつけ、運転の差し止めを命じた。ゼロリスクに固執した非科学的な地裁決定を覆したのは、当然である。

 新規制基準は、世界的に最高レベルの安全性の確保を原発に課している。基準を尊重した高裁の見解は、うなづける。

 原発の安全審査について、最高裁は一九九二年の四国電力伊方原発訴訟判決で、「最新の科学的、技術的、総合的な判断が必要で、行政側の合理的な判断にゆだねられている」と判示している。

 今回の決定は、この判断に沿った適切な内容だと言える。(後略)

 一方の朝日の見出しは、「あまりに甘い安全判断」。以下、記事。

 ――原子力規制委員会の新規制基準や電力会社の安全対策に理解を示し、合理的だと結論づける。安全に対する意識が、福島第一原発の事故前に戻ったような司法判断だ。(中略)

 あまりに電力会社の言い分に沿っていないか。規制基準は正しく、それに適合さえしていれば安全だと言わんばかりだ。

 技術面で素人である住民や一般の人が不安に感じるなら、納得が得られるよう安全性を追い求める。そうした姿勢の大切さが、事故の示した教訓だったはずだ。

 

(工藤 稔)

(全文は本紙または電子版でご覧ください。)

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