亡父は大正十二年(一九二三年)の生まれ。国鉄を定年退職した年の夏に亡くなっているから、もう半世紀近くになる。十九歳で軍に召集され、旧満州(現中国東北部)で敗戦となり、シベリアに抑留された。小欄でも書いたことがあるが、ウズベキスタンの首都タシケントの捕虜収容所で約二年を過ごしている。父は、帰国後、国鉄に入り五十五歳の定年まで勤めた。真面目な鉄道マンだった。

 子どもの僕から見れば、さほど子煩悩というヒトではなかったが、僕が小学四~五年生の頃、夜、眠る前の布団の中で、「シベリアエレジー」と名付けて抑留中や戦争の体験を話してくれた。十畳一間の官舎をカーテンで仕切った、電気が消えた寝室で「シベリアエレジー劇場、始まり始まりー」と父親の話が始まる。

 過酷な体験をした元兵士は、軍隊や戦争の話はしたがらないと聞くから、父の戦争は、それほどイヤなものではなかったのかも知れない。タシケントでは、戦争で工事が中断していたナボイ劇場という国立劇場の建設にあたったそうだ。隊長が立派な人で、「二百人の捕虜を一人残らず無事に日本に連れて帰る」と明言していたという。父親は、現場監督の若いソ連人女性に可愛がられ、レンガを焼く仕事から炊事班に替えられた、という話をしたり、ソ連兵と一緒に街のバザールやリクガメの卵を捕りにジープで砂漠に出かけた逸話などを面白くしてくれたものだ。

 昭和二十六年(一九五一年)生まれの筆者の家には、父親とともに戦地からウズベキスタンを旅してきた、カーキ色の毛布や飯盒(はんごう)とフォーク、ゴワゴワした厚い生地のリュックサックや持ち手が球状の小さなスコップといった、軍隊や戦争を想起させるモノが少なからずあった。戦争の時代から十年少ししか経っていない、まさしく「戦後」だったのだ。

 亡父の連れ合い、つまり母は間もなく百一歳で、施設にいる。ひどくはないが認知症の症状が明らかで、戦時の話も自分が深く関わった暮らしの一部を繰り返し語るくらいだ。戦争の時代は遠く、淡い、記憶の彼方に霞(かす)んで、現実味を失ってしまっている、ということだろう。高市早苗総理大臣は、僕よりも十歳下、一九六一年の生まれだ。両親が「教育勅語」の信奉者で、小学校に入る前から繰り返し暗唱させられて育ったそうな。戦争の悲惨な記憶よりも、軍国少年だったという父親の思想的影響を強く受ける少女時代を過ごしたというわけだ。

(工藤 稔)

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