戦後「八十年」だそうだ。昭和二十年が一九四五年、今年は二〇二五年だから、なるほど八十年だ。その手の特集が、新聞各紙でも、テレビでも組まれている。私は昭和二十六年の生まれ。家人は一歳下、昭和二十七年生まれ。二人でテレビの特集番組を眺めながら、「私たちって、戦争が終わって六年とか七年しか経っていない時代に生まれたのね」などと話をする。

 思い返せば、身の周りに戦争の匂いが濃く残っていた。例えば、満州で当時のソ連軍の捕虜となり、ウズベキスタンのタシケントに二年間、抑留されて帰国した父親が持ち帰った旧日本陸軍の毛布が家にあった。濃いヨモギ色で、硬くてゴワゴワ。十九歳で第七師団に入営した父親が、満州からシベリア、そして故国へと苦楽を共にした毛布。母親が真似事で「どぶろく」を造るとき、カメをくるむのに使っていたと記憶する。それと、飯盒(はんごう)とフォークもあった。どちらかと言うと寡黙な父が「父さんは、飯盒でご飯を炊くの、うまいんだぞ」と自慢していたのを憶えている。

 復員した父親は国鉄に復職した。今年百歳になる母親が「ソ連で教育されて、ピンク色になって戻って来た」と揶揄することもあった父親は、私が小学生の頃、布団に入って眠る前に、「シベリア・エレジー」と名付けて、抑留された時代の話を聞かせてくれたものだ。軍隊でさほど嫌な経験もしなかったのだろう、と思う。

 「戦争が終わる前、全部、南方に持って行っちゃって、満州にはろくな飛行機がなかった」。父の任務は飛行機の整備だったそうな。一九四五年八月、「日本が敗けた」という話が部隊に伝わる前に、上官は父たちに飛行機を整備させて、それに乗って姿を消した。残っていた飛行機を整備して、飛び立とうとしたとき、上空にはソ連軍の飛行機がブンブン飛び回っていた。「山の中にガソリンなんかを埋めて隠したりしているうちに、ソ連軍がやって来て、父さんたちは武装解除さ」。どこに向かうか分からないまま、貨物列車に乗せられた。海が見えた。「みんな、日本海だと思って、『バンザーイ、日本に帰れる』って大喜びしたんだ」。だが、それはバイカル湖だった。

工藤稔

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(工藤 稔)

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